橋本裕の日記
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50歳を過ぎたら余生だと考えて、面白半分に生きてみたい。そう考えていたが、私の場合は、50歳になるまえから面白半分の人生だったかもしれない。最近は面白半分どころか、面白8割といった按配だ。
つまり、面倒なことや、いやなことは原則しない。そして、面白いと思ったことは周囲を顧慮しないで、自分本位にどこまでもやる。世間の常識や他人の思惑も顧慮しない。だから、多少他人には迷惑をかける。しかし、法に触れるようなことはしない。
年賀状を廃止したのも、「めんどうだな」と思ったからだ。50歳になるまでは、毎年せっせと書いていた。義理で書いていたものもあるが、けっこう楽しんで書いていた。それが、あっさり、「もういこんなことはやめよう」ということになった。やめてみると、自由ですがすがしい気分になった。
行動の基準が「面白いか、そうでないか」だから、たしかに自己本位である。別の行動原理に立脚している人からすれば、なんとも理解しがたい、いい加減で利己的な人物に見えるかもしれない。たとえば、私の妻など、ずいぶん堅実な現実派である。そこで、いろいろと人生についての見解の相違があらわれてくる。
私はお金など貯めなくてもよい。そんな余分なお金があるなら、それで好きなことをしようという。たとえば、退職金が入ったら、それを妻と二人で分けて、それぞれに好きなことに使いたい。私の場合はそれを元手に世界を放浪してまわる。お金がなくなったり、健康を害したときには、その場でくたばればよい。
妻にはこうした発想は理解できない。お金は取っておいて、老後の生活の支えにすべきだという。病気になったら困るので、保険にもはいっておきたい。それに娘たちにもそれなりのことをしてやりたい。孫たちに小遣いをやるにも、たくわえがなければならない。
妻に言わせると、私は「キリギリス」だということになる。「いいじゃないか。キリギリスは面白おかしく生きて、冬がきたら野垂れ死にするんだ」と、私はこれを否定しない。「世の中、そんなに甘くはないわよ。最後はどうせ、尾羽打ち枯らして、私たちのところに助けをもとめてくるに決きまっているのよ」と、妻は冷静である。
こう書いてきて、自分が「ふーてんの寅さん」で、妻が「さくら」のように思えてきた。私の憧れは世界を股にかけた「ふーてん」ということらしい。夢想家の夫と、現実派の妻。この取り合わせも天の配剤ということだろう。もっとも妻にとっては、こんな夫を持ったことは災難かもしれない。
(今日の一首)
人生はたのしむものなり青空を 歩いてみよう風に吹かれて
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