橋本裕の日記
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2007年01月26日(金) 日本語教師への道

  定年後のことを、あれこれ考えている。日本から飛び出して、その果てにモンゴルの平原でハゲタカにでもつつかれて、孤独な往生を遂げたいというのが私の夢である。しかし、このことを言うと、みんな笑う。妻をはじめ、だれも本気にしない。これはそれほど非現実的な夢だろうか。

 そこで最近は、もうすこし現実的な夢を語るようになった。それは日本語教師になって、世界の人々に日本語を教えたいという夢である。これだと、多くの人は、「それも素敵な生き方ですね」と、一応は耳をかたむけてくれる。私自身も、そんな話を人にしているうちに、だんだん本気になってきた。

 もう、20年近く前のことだが、仏教大学の国文科に学士入学した。当時私は夜間高校で数学や理科を教えていたが、「国語」の教師免許をとって、国語科の教師になろうと思ったのである。国語の教材を使って、定時制の生徒たちに自分の胸のうちを語りたかった。数学という教材では、哲学や人生論、社会問題は語りにくい。

 しかし、この夢は挫折した。夜間高校から全日制の高校に転勤することになって、その動機の大半が失われた。それに国文学の勉強を続ける余裕がなくなった。レポートの提出をさぼり、授業料納入せよという大学からの通知を放置したたため、ある日、突然、「除籍」通知が舞い込んできた。これで2年間に取得した国文学の単位がすべてパーになった。今から考えると、惜しいことである。

 2年前に定時制に復帰した。そして経済的にも心理的にもすこし余裕が生まれた。まず、最初に考えたことは、この機会に何とか英語を物にしようということである。そこで、セブに短期留学するなどして、英語を集中的に勉強しはじめた。英語をマスターすれば、世界の人々と友達になれる。これが一番大きな魅力である。

 しかし、最近はただ友達になれるだけではではつまらなくなってきた。できることなら、もうすこし積極的に自分の定年後の人生を構築してみたと考え始めた。そのとき、日本語教師という選択肢が浮かんできたわけだ。世界の多くの人々に、「日本語」を教えることをとおして、日本語文化のすいばらしさも理解してもらう。そうすれば、おたがいにもっと深い交流ができるのではないか。

 考えてみれば、外国の人に日本語を教えるには、その国の言葉も知らなければならない。日本語を教えることで、外国語も勉強できる。これもなかなかうまい外国語の勉強法かもしれない。教えることは学ぶことだ。これによって、英語だけではなく、いろいろな外国語が学べれば一石二鳥である。

 定年まであと4年ほどある。この間に、日本語教師の国家試験に合格できればよい。また、その勉強をとおして、日本語についていろいろと思索することができる。こうした大きな目標ができると、心にますます張りができてきた。この夢を妻にかたると、「日本語教師ではなくて、定年後も、日本で数学の教師をしてください」と、いかにも妻らしい現実的な答えが返ってきた。

(今日の一首)

 定年後夢見ることはあまたあり
 健やかなればたのしみ多し


橋本裕 |MAILHomePage

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