橋本裕の日記
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「日本語の構造」の基本編を書き終えた。正確に言うと「日本文の構造」である。日本文がどのようなしくみでできあがっているのか、私が現在「自得」している範囲で書いたものである。その結論は、つぎのようなものだった。
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(1)すべての文は主題を持つ。 (2)主題は助詞「は」であらわされる。 (3)文の構造は「○は△が□である」である。
○は ーーー−−−−ーー △が −−−−ーーー □である
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あくまでも、自分が日本文を書く上で、大切に思っていることにもとづいて書いた。人それぞれに、自分なりの「日本語の構造」を書いてみると面白いのではないかと思う。
30年ほど前に、同人誌に小説を書き始めたとき、最初に送った作品が「採用できません」と書かれて、主宰者の小谷剛先生から送り返されてきた。最初の3ページだけ、朱筆で真っ赤に校正されていた。日本語はこう書くものですという、貴重なお手本だった。
「これをするのは、今回だけです。参考にして、日本語を勉強してください」
そんなきつい言葉が並んでいた。「自分は文章はうまい」とうぬぼれていた私の鼻は、これでへし折られた。これにめげず、その次に送った「海辺の市」は、たまたま運よく採用された。そしてこれが私の処女作になった。
掲載予定を知らせてきた葉書のなかに、「素直な文章がよい」という言葉があって感激した。しかし、その後は原稿を送っても「不採用」が続いた。そのつど葉書できつい叱責がとどいた。
<「が」の使い方がおかしい。テニオハがなっていない。「が」が最初のページに何個あるか、数えてみなさい>
私は真っ青になった。こうした文章修行が、小谷先生がなくなるまで、17年間ほど続いた。そして、その間に、私は三十数編ほどの短編小説をかいた。あいかわらず小谷先生の批評は厳しかったが、7、8編は「文学界」の同人誌評でとりあげられ、月間ベスト5に入ったこともあった。
あるとき会員の一人が、「どうしても小説が書けない」と悩んでいたら、小谷先生に、「橋本裕のように素直に書けば、いくらでもかける」といわれた、と打ち明けてくれた。私はこれを聞いてうれしかったが、同時にこれは小谷先生の厳しい批評とも思った。そのころから、小説を書くことに迷い始めた。
先生がなくなる一年ほど前、合評会のあとの宴会の席で、「小説はものになりそうもないので、もうあきらめようかと思っている」と小谷先生に言った。そのときは黙って聞いていた先生が、あとで、電話をくださった。
「橋本君、本を出すのだったら、私にまかせなさい」 「文学賞に応募してみなさい」
これはとてもうれしかった。 しかし、やがて私は父を失い、同じ年に、小谷先生もなくなられた。今年は私の恩人である二人の17回忌である。はやいものだ。
久しぶりに、小谷先生の書かれた「女性のための文章作法」(講談社)を取り出して読んでみた。そこにこんな言葉があり、私の手で赤く傍線が引かれていた。同人誌で小説を書いていた頃、何度も読み返した部分だ。
<私も含めて、お互いに文章が下手なのだから、下手なくせに名文にしようとか、飾ろうとかは考えないで、まず、余分なことばをを省くことをしっかり覚えましょう。必要にして充分なことばであるかどうか、それをひとつずつ確かめながら、ことばをえらびましょう。ぶつ切れでもよいから、的確な文章を書きましょう。意外性のある表現というものも、そうした勉強のなかから、おのずから生まれてくるものだと、私は思います>
名文である必要はない。的確で、達意の文章を書きなさい、というのが先生の文章指導だった。文章の気品や美しさは、そうした基礎ができていれば、作者の内面を反映して、おのずから生まれてくるものだろう。
(今日の一首)
太陽のごとく輝きあたたかし ハロゲンランプ寒き夜もよし
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