橋本裕の日記
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文はその性質によって、2つの種類に分かれる。たとえば、次の2つの文を比較してみよう。
(1)太陽が赤い。 (2)太陽が好きだ。
いずれも主格は「太陽」である。しかし、この二つの文は性質が異なっている。(1)の文は、その真偽はともかくとして、客観的事実を述べた文である。これを「描写文」と呼ぶことにする。
太陽が燃えている。 彼がグラウンドを走っている。 猫が公園で寝転んでいる。 彼が彼女にお金を貸した。 これらも「描写文」である。しかし、(2)はそうではない。「好きだ」という述語には、主観的な嗜好や推測が含まれていて、話し手の気持や判断を伝えている。ゆえにこれらを「判断文」と呼ぶことにする。
山に遊びに行きたい。 彼が彼女に教えるべきだ。 彼女は今日は来ないだろう。 いずれも、話し手の意志や願望、推量などを含むので判断文である。それでは次の文章はどうだろう。
彼が犯人だ。
客観的事実を述べているようにも見えるが、これも判断文である。「○は○○だ」という名詞文は、「○は○○だろう」や「○は○○らしい」とちがって、強く言い切っているだけだ。
さて、判断文は何かを判断している。その判断する主体は話し手(私)である。その「私は」という主体は、多くの場合は潜在化しているが、顕在化させることもできる。
私は、太陽が好きだ。 私は、山に遊びに行きたい。 私は、彼が彼女に教えるべきだ、と考える。 私は、彼女が今日は来ないだろう、と考える。 私は、彼が犯人だ、と考える。 私は、彼が犯人かもしれない、と考える。
構造式は、たとえば次のようになる。
(私は、考えます) ーーーーーーーーーーーー 彼が −−−−−ーーーー 犯人かもしれない さて、それでは描写文について、主題を顕在化させることはできるのだろうか。ここで、もう一度<太陽が赤い>という文章に戻ろう。これは主格として「色」を補って、次のように書くこともできる。
<太陽は色が赤い>
太陽は ーーーーーーー (色が) −−−−− 赤い
このとき、「赤い」の主格は「色」である。そして「太陽」が「主題」だということになる。このように描写文でも主題は顕在化することができる。ただその場合、主題は話し手以外になる。
彼は ーーーーーーー (性格が) −−−−− 親切だ
結論として言えることは、すべての文は主題をもつ。これは文はいつも「何ものかについて述べられたもの」であることから、当然ともいえる。判断文と描写文の違いは、自分の気持や判断について述べるか、自分以外のことがらについて述べるか、その違いだということになる。
ここで、日本文が二層構造であることについての訂正をしなければならない。述語という土台の上に補語群の柱を建てて終わりにするのではなく、その上に「主題」という標識を持った三角屋根をつけよう。これで文の構造が最終的に決定した。
象は ーーーーーーー 鼻が −−−−− 長い
じつのところ、この文は日本文の普遍的な基本構造を簡明な形であらわしていたわけだ。三上章がこれを表題に本をかいた慧眼に感心する。
/ \ / 日本語は \ ------------- | 奥が | | --------- | | 深い | -------------
文と文が集まって、文章が作られる。文章を書くとき、大切なのは「主題」である。私のこの文章は「日本語の構造」という「主題」のもとに書かれている。しかし、主題は、じつのところ、文章を構成するそれぞれの文の中にもある。そして「は」という助詞には文の主題を提示する大切な働きがある。そういえば、三上章は「象の鼻は長い」のなかで、次のように書いていた。
ーーーーーーーーーーーーーー 「は」は大きく大まかに係る。 ガノニヲは小さくきちんと係る ーーーーーーーーーーーーーー
ガノニヲによって、文はその基本構造が形作られる。しかし、「は」は文全体を統括している。そしてその勢力は、じつは文をもはみだしている。「は」によって、私たちは前の文を受けている。それは文と文の関係(文脈)にまでかかわり、文章の構造にまで影響を与えている。しかし、今は「文章の構造」にまで話題を広げることはしない。
(今日の一首)
うすあかり障子にさして一日の はじまるときは喜びあふる
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