橋本裕の日記
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英語では「主格」を他格より上において、「主語」(subject)として取り扱っている。日本文でも学校では、英文と同じく、「主格」を「主語」と呼ぶ。たしかに「主格」は他の「に格」や「を格」などに比べ、相当に重要な格だが、私の並列モデルでは特別扱いをしない。「主格」という立派な名前があるので、これを用いる。
「主格」とは何かといえば、「行為」や「存在」の「主体」である。「誰が」「何が」にあたるのがこれで、名詞や名詞句に「が」という助詞がついたものである。学校でも、「が」がついているか、「が」で置き換えられるものを「主語」とよぶように教えられている。
私が 彼に 英語を 教えます。 私は 彼に 英語を 教えます。 私も 彼に 英語を 教えます。
主格は「が」で表すが、「は」や「も」でも表す。 「私は」「私も」も、「行きます」という述語の「誰が」にあたる部分であり、「が」に置き換えられる。しかし、「は」や「も」がいつも「主格」を表すわけではない。
彼は 私が 英語を 教えます。(に格を代行) 英語は 私が 彼に 教えます。(を格を代行) 彼も 私が 英語を 教えます。(に格を代行) 英語も 私が 彼に 教えます。(を格を代行)
「は」が「が」を代行して主格をあらわす場合でも、「が」とは違ったはたらきをする。
(1)私が行きます。 (2)私は行きます。
(1)の「が」は「誰が行きますか?」という問の答えになっている。これは「主格」が誰であるかを問うている。「誰が」(Who)という問いは不特定多数を対象にしている。文を情報を伝えるための手段として捉えると、(1)の場合、相手に伝えたい情報、もしくは相手が知りたい情報は、「私が」である。「〜が」が未知の情報である。
このとき、「述部」の方も、必ずしも既知ということではなく、新しい情報として価値をもつ場合がある。「彼が走っている」という文は、「誰が何をしていますか?」という両方の問いに答えている。この場合は、「何をしているか」ということも貴重な情報だといえる。
(2)の「は」は「あなたはどうしますか?」という問に対応している。つまり「主格」をではなく、彼の行動の内容を問うている。「あなたは」という問では、「主格」がすでに決められているか、限定されている。そして、(2)の場合は「行きます」が新しい情報として提示されている。「〜は」では、そのあとに続く部分が重要になってくる。
「〜が」が一般的な状況のなかで独立して用いられるのに対して、「〜は」はある特定の状況に依存している。「は」が用いられるときは、文の前提として、「何かある状況」が特定されて、その言外の状況をうけて、それを説明するために、「〜は、何々です」と語られることが多い。このように「は」は「何々については」と、「主題」を提示するはたらきがある。
<象は鼻が長い>
この文章は「象については、鼻が長い」という意味である。文章の主格は「鼻が」である。それでは、「象は」は何か。文の構造を見てみよう。
象は 鼻が ーーーーーーーー 長い
これだと、「象」と「鼻」という二つの「主格」を想定している。目の前に象がいて、「長いのは何?」と聞かれれば「鼻」という答えは可能だ。しかし、「象」という答えはやや不自然だろう。
また、目の前にたくさんの動物たちがいるとき、「長いのは何?」と聞かれて、「キリン」や「蛇」という答えはあるかもしれない。しかし、「象」という答えはむつかしい。ただし、「象の鼻」という答えは大いにありうる。
象の鼻が ーーーーーーー 長い
したがって、これは自然な文である。このように、文の構造を知るには、その文がどのような問の答として生まれるか、さかのぼって考えてみればよい。
それでは、私たちが「象は鼻はながい」と答えるとき、それがどのような問から生み出されるのか。こう考えたとき、それは、「鼻が長いのは何か?」という問だということがわかる。
象は ーーーーーー 鼻が長い
ここで、「鼻が長い」をさらに、構造化すれば、次のようになる。
象は ーーーーーーー 鼻が −−−− 長い
こうして、「鼻が長い」の「主格」が「象が」で、「長い」の主格が「鼻が」だということがわかる。最後に、もうひとつ、「は」と「が」の共存する文をとりあげよう。
<私はあなたが好きです>
私は あなたが ーーーーーーーー 好きです
「好きです」の主格は、「私」だろうか、「あなた」だろうか。学校文法に従えば「あなたが」が主語だということになる。たしかに文の形からして、形式の上の主格は「あなたが」ということになりそうだ。しかし、意味を考えてみよう。そのために、これを英語に置き換えてみる。
I like you.
ここでは主格は「私」であり、「あなた」は「目的格」である。「私はあなたが好きです」の場合も、「好いている」という動作(状態)の主体は「私」で、その向かう対象が「あなた」だと考えるのが自然だろう。この場合、もとの文は次のような文におきかえられる。
私は あなたを ーーーーーーーー 好いています
そうすると、この文の意味上の主語は「私は」である。ひとつの文のなかに、「は」と「が」が共存するとき、こうした問題が起こってくる。「が格」を常に主格とするという形式主義は捨てたほうがよいのだろうか。もっとも、この文章も、「は」を主題とみなして、次のように構造化することができる。
私は ーーーーーーーーー あなたが −−−−ー 好きです
つまり、この文章も<象は鼻が長い>と同型だということになる。違っているのは、<鼻が長い>は客観的事実を描写した文で、<好きだ>というのは主観的判断を含んだ文だということだ。この二つの文の違いについて、次に分析してみよう。
(今日の一首)
雨降れば散歩道なる喫茶店 われにささやくしばし憩えと
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