橋本裕の日記
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英文の構造は、主語、動詞、目的語が直列に並んでいる。日本文の場合は土台に動詞があって、その上に各種の補語が並列にならんでいる。たとえば次の例文で見てみよう。
<I have a good idea.>
<I>−<have>−<a good idea>
英文には日本文のように「助詞」がない。そのかわり、主語が先頭に来て、次が動詞、そのあとに目的語や補語というぐあいに順序がきまっている。そして、この順に時系列で意味を拾っていく。一方、日本文はどうだろうか。
<私によい考えがある> −−−ー 私に −−−| あ | | | よい考えがーーー| る | −−−−
上の図は便宜的に横に倒してあるが、イメージ的としては、3個の直方体の積み木を思い浮かべてほしい。まず、横文字で「ある」と書かれた述語の積み木を土台として横に寝かせて置く。その上に「私に」「よい考えが」と縦に書かれた2つの積み木を垂直に柱のように立てるわけだ。これで日本文の基本的なイメージができあがる。
縦に垂直にそびえる塔のような英文に対して、日本文は横にひろがる平屋で、実にすわりがよい。鎮守の森に囲まれた、素朴な社が想像される。ただこの社には屋根がない。屋根がほしい人は、「主格」を柱の位置からはずして、その上に主語と命名し、三角の屋根にして置こうとする。一見魅力的だが、あとに述べる理由によって、私はこれを採用しない。
さて、英文が直列の縦構造になり、日本文が並列の横構造になる根本的な原因は、英文には「格」をあらわす助詞がなく、日本には「が、の、に、を、は」というテニヲハが存在することである。これが日本文にすわりのよいゆったりした横ひろがりの構えをゆるしている。この日本文の美点に注目したい。
日本文では補語は並列的に置かれ、基本的には平等だが、しかし、そこにゆるやかな順序を認めることもできる。たとえば、補語の位置を入れ変えてみる。
<よい考えが、私にある> −−−ー よい考えが−−−| あ | | | 私に ーーー | る | −−−−
この二つの文章には多少のニュアンスのちがいがある。 「だれか、よい考えがありますか」と聞かれたら、「私に・・・」と答えるだろう。 「あなたはどう思いますか」と聞かれたら、「よい考えが(私に)あります」と答えるだろう。
私たちは一般的傾向として、補語の中でも価値のある新しい情報ほど前にならべようとする。こうして並列的ななかにもゆるやかな秩序が生まれ、文の含蓄をゆたかにする。こうした自由な離れ業は、「てにをは」を持たず、「主格」を先頭にして、直接目的語、間接目的語と、必然的に語順が決まる剛構造の英文ではむつかしい。
なお、補語の順序については、「むかしむかし、あるところに」という具合に、日本文でもおおまかな傾向がないわけではない。一般につぎのような順序が考えられる。
(土曜日)に (喫茶店)で (私)が (あなたを)を (彼)に ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー (紹介)します
日本文の場合は必ずしも「主格」が重要とはかぎらない。むしろ多くの場合、主格は影がうすい。だから、しばしばしばしば省略される。「主格」を「主語」とよび、特別扱いして、柱の上に屋根として麗々しく飾ることは、実用的でないばかりか、日本文の「てにおは」のもつやわらかな美しさをも破壊することになる。だから、「主語」はいらないという主張に、私は賛成である。
さて、三上章さんは、こうした考えを「象の鼻は長い」のなかで明確にのべている。「日本語の文法手段のうち、最も重要なのはテニオハです」と扉の言葉に書き、本文の中でも、次のように書いている。
<主語廃止論というのは、字づらから早合点すると、顕在、潜在の「ガ」をないがしろにするみたいですが、そうではありません。「Xが」は「Xヲ」「Xニ」などよりも相対的にずっと重要ですから、それを重視するのは当然であり、わたしもそのことに反対しているわけではありません。文法で行う論理的な訓練をかりにガノニヲ訓練と呼べば、先頭の「ガ」に大きな重さが与えられることはいうまでもありません。大切なことはそれを正しく重視することです。
「文は主語と述語との二部分からなる」というのは、ヨオロッパ語に固有の偏たりであって、日本語にあてはまりません。にもかかわらず、後進国根性いや堅く、主述関係というものをむやみともったいながる人が断然多数なのです。学会の保守層、教育界の大部分、一般知識階級を通じて何十万という頭数でしょう。圧倒的に多勢に無勢で、主語廃止論の前途は困難を極めています>
正しく美しい日本文を書くために、ボキャブラリーも大切だが、文の構造についての論理的な理解も大切である。三上さんはそうした文法意識を身に着けるには、「てにおは」の訓練が最重要だという。じっさい、「象の鼻が長い」には多彩な文献から千を超える生きた文例が引用されている。これをすこし辛抱して読めば、「てにおは」によって、いかに日本語が自由自在で、奥の深いゆたかさを実現しているか、自ずから実感されるだろう。
(今日の一首)
さびしさを求めて街をさすらひし 若き日もあり詩人のように
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