橋本裕の日記
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文にはさまざなな単語が連続して並んでいる。しかし、ただ並んでいるわけではない。そこにある決まりがある。この決まりに従って並んでいるから、文が意味をもつわけだ。
人間は5歳くらいまでに、基本的な言葉は理解するようになる。そして、ことばがわかるということは単にボキャブラリーを増やすだけではいけない。ことばのしくみ(構造)についての理解が欠かせないわけだ。
(1) 単語の意味 (2) 文の構造(文法)
この両者があいまって、文の理解が可能になる。もちろん、この両者はある意味で分かちがたく結びついている。単語の意味が確定するのは文の中に置かれたときであるし、また文の構造や意味を作り出すのも、個々の単語の共同作業だからだ。このことについて、次の文を例にとって考えてみよう。
<机の上に私の本があります。>
まず、これを意味のまとまりから、3つの部分に分けよう。
<机の上に><私の本が><あります>
次に述語を取り出す。日本文では動詞が最後に置かれるきまりになっているので、述語が<あります>だということはすぐにわかる。述語がわかったところで、その上に、残りの2つの部分を並列に並べてみよう。
<机の上に>ーーー |ーーー<あります> <私の本が>ーーー
これで文章の構造がはっきりした。この文章は二階建てである。<私の本が>というのは「何が」という問いに対応しているので、これを「主格補語」もしくは「主格」とよぶ。そして「どこに」に対応しているのが<机の上に>である。これは「位置を表す補語」(位格補語、位格)である。
この文章は2つの補語しかもたないが、一般には「誰が」「どこで」「誰に」「何を」「どのように」といういわゆる5W1Hの補語があって、これらが「述語」の上に並べられる。日本文の基本構造はこのようにとてもシンプルで、「補語ー述語」という二階建てで理解できてしまう。
しかし、これは現在学校で教えられている内容と必ずしも一致していない。「学校文法」では「主語ー述部」を中心に考える。そして、さらに述部を補語と述語に分解していく。したがって、この方法では日本語の構造は二階建てに収まらない。三階建て、あるいはそれ以上に高層化することがおおい。
<私の本が>−<机の上に>ー<あります>
<主語>ー<補語1−補語2ー・・・>ー<述語>
日本文を「主語ー述語」文として捕らえる方法は、明治時代にさかのぼる。おもに欧米語を参考にして、「SVO」などの文型を日本文にあてはめたものだ。しかし、これについて、三上章をはじめとする一部の学者から「日本語に主語は必要でない」という異論がでている。たとえば、亀井孝編「日本語の歴史7」にもこう書かれている。
<英語のような言語では、goは<I go>、<you go>、<he goes>等々のように必ず<主語>を顕示するが、日本語では、たんに「行く」だけでは十分なことが多い。ただ、あいまいさをさける必要が場合「私が」「アナタガ」が付加される。つまり、「私が」「アナタガ」はそれが省略されているのではなく、むしろ<補語>なのである。かくて日本語のカナメは<述部>にあるということになる>
たしかに、日本語の特性にたてば、日本文は「補語ー述語」の二階建てになるのではないか。私もまたこのほうが「主語ー述語」文法よりも日本語の実情にあっていて、実践的でもあり、日本語の学習に大いに役立つように思われる。明日の日記では、三上章の名著「象の鼻は長い」を引用しながら、この点をもう少しくわしく述べてみよう。
(参考文献) 「象の鼻は長い」 三上章 くろしお出版
(今日の一句)
真夜中に目を覚まして考える 今もイラクで流血の悲鳴
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