橋本裕の日記
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日本人は英語が苦手だという。何年間学校で英語を習っても、片言の英語も口にできない。その理由の一つには学校教育の不備ということがある。少人数にしてもっと実践的な授業をしなければならない。教師ひとりにつき、8人以下がのぞましい。実際、私が学んだセブの英語学校は最大で8人クラスだった。
しかし、日本人の場合、少人数にしてトレーニングを多くしても、なかなか上達しない。セブでも日本人学生どうしの会話を聞いていると、やはり「英語はむつかしい」という話題になる。私自身もせっかくマンツーマンでネイティヴと会話する機会に恵まれながら、そのチャンスを生かしきれず、歯がゆい思いをした。日本語を思うように英語に変換できないのだ。
カナダに20年間滞在し、大学で日本語教育に携わってきた金谷武洋さんは、奥さんがフランス人ということもあって、英語と日本語とフランス語をそれぞれ1/3ずつ使う毎日だという。その彼が「日本語文法の謎を解く」のなかで、英語上達の秘訣をこう書いている。
<日本語に強い「ある言語」志向を、意図的に「する言語」志向へと、大胆に発想を転換させることが英語力アップの最大の秘訣である。(略)「物は試し」だ。行為者を表示する人称代名詞(I、You、It、We、He、She、They)をちりばめ、他動詞を多用し、話している相手の名前を文のあちこちに放り込みながら、頭蓋骨に共鳴させたよく透る声で話してみよう。自分が別人になったような気がするに違いない。流暢に外国語を話すとは、そういうことなのだ>
金谷さんは英語は他動詞中心の「する言語」であり、日本語は自動詞中心の「ある言語」だという。また他動詞の場合でも、日本語と英語ではそのありかたに違いがある。たとえば「あなたが好きだ」(I like you)という日本文は、他動詞でさえも「すきで・ある」(好きという状態にある)と分解できて、じつのところその実態は自動詞である。みかけは「SVO」の行為文であっても、その本質は「存在文(ある言語)なわけだ。
つまり、日本語にはそもそもものごとを「何ものかの行為の結果」とみる他動詞的発想が欠けている。だから私たち日本人が英語を話そうと思ったら、私たちがふだん親しんでいる「何なにである」という存在文を、ほとんどなじみのない行為文に変えなければならない。これは生半可なことではできない。大胆に発想を転換する必要がある。反対にこれができれば、英語が話せるようになるわけだ。
もちろん、発想の転換は、欧米人が日本語を学ぶときにも必要だろう。幕末の日本に滞在した初代の駐日イギリス公使オールコックは冷静な教養人としてしられる。その彼が日本滞在記「大君の都」にこう書いている。
<ここではすべてのことが奇妙にも逆転する。さか立ちせずに足で歩くことを除けば、ある神秘的な法則によって、まったく正反対の方向へと、逆転された秩序に駆り立てられているようだ>
ラデイオカオ・ハーンはむしろこうした日本をこよなく愛した。彼は東大で学生に英語を講じながら、日本の学生はイギリス社会を描いた小説を本当には理解できず、「広く西洋の生活全般が日本人には謎」なのだと考えていたという。謎は現代の日本人にも残されている。
This room has two windows. (この部屋には窓がふたつあります)
何事をも「行為文」として表そうとする英語もまたひとつの「謎」であろう。日本人とって英語の世界は「まったく正反対の方向へと逆転された秩序」のようでもある。英語がわかるということは、この逆立ちした秩序の住人になるということなのだとしたら、ちょっと怖い。
(今日の一首)
あたたかきふとんのなかであれこれと 思うひととき寒き日もよし
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