橋本裕の日記
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2007年01月08日(月) 愛するということ

 もう30年以上、万葉集に親しんでいる。この日記でも万葉集の歌については折に触れて書いてきたし、人にも「ぜひ、読んでごらん」とすすめる。それは「万葉集こそ日本の宝だ」という思いがあるからだ。

 万葉集は「愛の歌集」だといわれる。友人への愛、兄弟への愛、恋人への愛、そして自然への愛、すべてを「愛情」の対象にする健やかで、おおらかな世界がそこに広がっている。もう、1千数百年も前の人たちの歌だというのに、その思いは私の心に生き生きと届く。そして私の心を暖めてくれる。

 ところで、万葉集で人々はどのように「愛」をうたっているのか。じつのところ、「愛している」とか「好きだ」という言葉はほとんど使わない。それでは自分の愛情をどう表現するのか。

 来むといふも 来ぬ時あるを 来じというを
 来むとは待たじ 来じといふものを    (巻4−527)

(来ると言っても来ないときがあるんだもの、来ないと言っているんだから、来るだろうなと期待して待つのはよそう。だってあなたは来ないと言っているんだもの)

 女は男に来てほしいと思っている。男がとても好きなのだ。しかし、一言も「来てほしい」「あなたが好きだ」とはいわない。ただこういう歌を送り届けて、自分の置かれている状況や思いを具体的に述べる。それで女の愛情は伝わる。

 君が行く 海辺の宿に 霧立たば
 吾が立ち嘆く 息と知りませ    (巻15−3580)

 夫は妻を家に残して、長い異国への旅に出かける。その夫に妻が与えた歌である。海辺の宿に霧が立ったら、それは私が
家であなたの身の上を心配して嘆いている息ですよ。そう思って、私のことを思い出してくださいね。ここにも「愛している」という言葉はない。しかし、夫をいとしく思う心は十分に伝わる。それゆえに、夫もまた、旅先でこんな歌を詠んで、遠く離れた妻をしのぶのだ。

 わがゆゑに 妹嘆くらし 風早の
 浦の沖辺に 霧たなびけり     (巻15−3615)

(妻が私の身の上を案じて嘆いているようだ。風早の沖辺に霧がたなびいている)

 このように、万葉集の歌は「好きだ」「愛している」という言葉をつかうかわりに、その思いを別の形であらわそうとする。「自分はもう死んでしまいそうだ」という常套的な表現もみられるが、少なくとも口先だけで「愛している」とは言わない。愛している自分の行動や感情をもっと具体的に表現することで、もっと豊かに自分の思いを届けようとしている。

 信濃なる 千曲の川の 細石も
 君し踏みてば 玉と拾はむ    (巻14−3400)

 女は河原で男が踏んでいった石を拾い上げる。その石を宝物として持っていたいというのだ。この歌にも、「愛している」という言葉は見当たらない。ただその愛情を「石を拾う」という具体的な行為として描いている。そのイメージが具象的であるだけ、そこにこめられた女の愛情がより深く美しく表現されている。

(参考文献)
「万葉の人々」 犬養孝 新潮文庫


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