橋本裕の日記
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人間は自然の中で生きている。しかし、その実感はますます薄れてきてる。とくに都会生活者は、自然を目にすることが少なくなった。道路や建物は自然ではない。人工物である。日本庭園も自然とはいいがたい。どれほど自然のように装っていても、やはり人工的な自然である。
こう書いてきて、そもそも「自然」とは何かという疑問が起こった。それは普通に考えれば、森や川や海であり、そこに住んでいる様々な生き物である。これが現代の日本人が感じる「自然」というものの概念だろう。つまり、簡潔に言えば、「人間」をのぞくすべての森羅万象である。
「自然」という言葉は、じつのところ明治時代になって生まれた言葉だ。その出所は英語の「nature」である。そして英語の「自然(nature)」は「人間(human beings)」に対立する概念である。私たち日本人は明治より前には、この言葉を知らなかった。そして、言葉を知らなかったということは、そうした意識をもっていなかったということである。
つまり、自然を人間に対立する存在として考える習慣がなかった。むしろ、人間もまた、馬や牛がそうであるように、自然界の一部だった。人間そのものが生物の一員であり、そして死ねば、ときには他の生物に生まれ変わることもあると考えられた。
つまり昔の日本人にとって、すべてが自然なわけである。そしてすべてが自然なとき、「自然」という言葉も生まれようがない。言葉は「差異」や「対立」の中から生まれる。「全体」という言葉は「部分」の裏返しである。「自然」もまた「人間」という概念と対になって生み出されたわけだ。
私たちはすでに「自然」という言葉を知っている。ということは、こうした言葉の枠組みで世界を眺めているわけだ。つまり、自然を人間に対立する存在として感じ、人間を自然に対立する存在として感じている。私たちが「自然」という言葉を口にするとき、すでに私たちはそうした認識のスキームのなかにいるわけだ。
しかし、「自然」という言葉を持たなかった少し前までの日本人は、こうした認識のスキームからは自由であり、ずいぶん違ったふうに世界を眺めていたはずである。それがどのようなものであるか、現代人である私たちは正確に知ることはできないが、それでもまったく想像できないわけではない。
日本人は西洋生まれの「自然」という言葉を使い出して、まだ日があさい。たかだか100年ばかりのことである。私たちの中には、人間をも自然の一部と見る認識や感覚がうもれている。そして、何かの折に、その感性がよみがえってくる。それは私たちを、いまだ人間が自然と対立していなかった世界へといざなう。
<今日ではすべてが過去に沈んでしまった。そして私は秋になってしめやかな日に庭の木犀の匂いを書斎の窓で嗅ぐのを好むようになった。私はただひとりでしみじみと嗅ぐ。そうすると私は遠いところに運ばれてしまう。私が生まれたよりももっと遠いところへ>
これは哲学者である九鬼周造の随筆の一節である。私には彼のこの文章がよくわかる。散歩をしていると、風のそよぎや、小鳥の鳴き声、草花の匂いを嗅ぐ。そのとき、それらが私を「遠いところ」へ運び去るのだ。そのとき私に何が起こっているのか、説明はむつかしい。ただ、「自然と人間」といった現代人の認識の病から、わずかばかり自由になっている。
(今日の一首)
庭の木をゆする風さえなつかしく 思いいでたり佳き人のこと
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