橋本裕の日記
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書店へ行くと、日本語教師の書いた日本語に関する本が目につく。金谷武洋さんの「日本語に主語はいらない」(講談社選書メチエ)、「日本語文法の謎を解く」(ちくま新書)や森本順子さんの「日本語の謎を探る」(ちくま新書)などだ。外国で外国人を相手に日本語を教えていると、外国語との対照で、日本語のしくみがよく見えてくるようだ。
エッフェル塔に登ると、パリの街がよく見える。しかし、一ヶ所だけ見えないものがあるという。それはエッフェル塔だそうだ。おなじように私たち日本人は日本語を使って世界を見ている。しかし、日本語そのものを意識することはあまりない。
自分の顔を見るためには鏡を使わなければならない。日本語を知るためにも、日本語のなかだけで考えていてはだめで、たとえば英語という外国語の鏡を使う必要がある。比較対照することで、その違いがくっきりと浮かびあがる。
金谷さんはカナダのモントリオール大学でカナダ人学生に日本語を教えながら、ずいぶん苦労をしたようだ。ふつうは「文法」が理解できれば、それなりの文章がかけるはずだが、こと「日本語文法」に関しては日本語をマスターする助けにならない。
金谷さんはその原因が、日本語文法は実は「英文法」の焼き写しにしか過ぎないからだという。明治時代に英文法をお手本にして「日本文法」なるものを作り上げた。しかし、それは英語を勉強するための文法で、日本語のためではない。そこで日本語の現実に即した日本語文法は何かということを考え始めたのだという。
金谷さんによれば、日本語の特質は「主語がないこと」だという。英語には必ず主語が必要である。しかし、日本語はほとんど使わない。なぜそうなるのかといえば、英語は他動詞中心の「する言語」であり、日本語は自動詞中心の「である言語」だからだという。「誰々が何々をする」というのが英語文の基本で、「何々は何々である」というのが、日本文の基本なわけだ。
I like movies. (「I」が主語) 映画が好きです。 (「映画」が主格補語。主語はない)
人間中心の英語の場合、「主語」や人称代名詞が大切である。これに対して、日本語は「述語中心」で「主語」や「人称代名詞」は存在感がない。それは英語を直訳した文章がどれほど日本人に読みにくいかでもわかる。( )で普通の日本語を示しておく。
「僕の父は僕の母に、彼女が僕と僕の父を彼女の車で送ることを断った」 (ママは車で送ってくれると言ったが、パパは断った)
こうした英語と日本語との性格の違いは何に由来するのだろう。金谷さんはそれは英語が「人間中心の発想や世界観」に支えられているのに対し、日本語は「自然中心の発想や世界観」に支えられているからだろうという。英語を話す人は「人間が何かをなす」というところに価値を置く。これに対して、日本人は「ありのままの自然」を尊重するわけだ。だから存在の動詞「ある」をつけることで、尊敬表現も可能になる。
先生がおはなしになる。(「なる」には「ある」がふくまれている) 先生がいらっしゃる。(「しゃる」に「ある」がふくまれている)
欧米では町の名前や通りに人の名前がついている。たとえばエッフェル塔もアレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルという人名からきている。エッフェル塔を設計した技師だといわれているが、じつはこれを建設したエッフェル社の代表らしい。このように欧米や、欧米の植民地だった国では、公共的な建築物や施設に人名をつける。カーネギー大学やケネディ空港など、あげればきりがない。
さらには、山や川など自然物にさえ人の名前をつける。たとえば、ビクトリアやバンクーバーなど人名がそのまま地名になっている。カナダでも重要人物がなくなると、数日後にはその名前をどこに残すかが国会で話題になるという。カナダで一番高い山は、ピエール・エイリオット・トリュード・マウンテン(標高5959m)というが、これは2000年9月になくなったカナダ首相のフルネームだ。
この山はそれまでマウント・ローガンと呼ばれていた。ちなみにローガンさんはカナダ地質学会の初代会長だった人だという。ローガン山がトリュード山に改名されると同時に、また別の山がローガン山と改名された。こうしてところてん式に山の名前が次々と変わる。こうしたことは欧米ではあたりまえだ。ロシアに行けばレーニン山があるし、エリティン山まである。
こうした事態は日本では考えられない。国会決議で「富士山を吉田茂山する」と決めたら、日本国民はあきれるだろう。日本では山に個人名がつけられることはない。「自然はつねに人間より大きく偉大だ」という感性や思想があるからだ。そればかりではなく、日本人は町の名前や通りにも個人名をつけたりしない。「する」ことよりも「ある」こと、「行為」よりも「存在」を尊ぶ伝統が根強い。こうした伝統や文化が、日本語を培い、また日本語によって培われてきたわけだ。
(今日の一首)
めでたしや病の癒えた母の声 よろこび満ちて受話器に響く
(今日の短歌が書けずに困っていたら、夜の9時をすぎて、母から電話がかかってきた。今日、退院したとのことである。いつものような元気な声が聴けてうれしかった。おかげで、たちまち一首できた)
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