橋本裕の日記
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| 2006年12月30日(土) |
日本語に主語がない理由 |
金谷武洋さんの「英語にも主語はなかった」(講談社選書メチエ)によると、少し前までは英語にも主語はなかったのだという。ちょっと意外だが、日本言語学会の松本克己も会長就任講演で、「主語は12〜13世紀に印欧語に出現したが、他の語族には依然として見られない」と発言している。たとえば、ラテン語で「主人が犬を殺す」「犬が主人を殺す」という文章を書くと次のようになる。
Dominus canem occidit. (主人が 犬を 殺す)
dominum canis occidit. (主人を 犬が 殺す)
これを見てもわかるように、殺す(occidit)という動詞が最後に来ている。そして行為者には語尾に「s」が、行為を受けるものには「m」がつく。行為者が先頭に来るともきまっていない。
ここで大切なのは「行為者=主語」という認識がなかったということだ。英語で主語を「subject」ということからもわかるように、それはむしろ「従属語」であった。何に従属しているかといえば、述語(動詞)にである。
あくまで文章の中心は「述語」であって、いわゆる「行為者」ではなかった。なぜなら、行為者はあえて言わなくても、「述語」から推測されるからである。行為者がまぎらわしいときに、そこに添えておくというだけの従属的存在でしかなかった。
この状況はまさに「日本語」の場合と同じである。日本語では主語はほとんど書かれない。いわゆる日本語文法は英語式の「主語ー述語」を基本にしているから、これを主語の「省略」という。
しかし、「省略」という言葉はまちがっている。そもそも日本語には「主語」は必要ない。主語がないのが例外ではなく、あるほうが例外だと考えた方が自然なわけだ。こうした「述語中心」の言語表現が、日本語以外の言語でもふつうであった。実のところ、英語でも「述語中心」で「主語」などなかったわけだ。
誤解を招くといけないので一言付け加えよう。「主語がなかった」ということの意味は、「行為者を文の中心だと考える意識がなかった。したがって、行為者をあらわす語(主語)も一般に必要ではなかった」ということである。つまり、行為者を「主」と考える思想が確立されていなかった。
それでは13世紀ごろに、なぜ印欧語、とりわけ英語で行為者をあらわす言葉が「主語」として意識され、文頭に定位置として置かれるようになったのか。ひとつには「ノルマンの征服」ということがあったからだ。抑圧された英国民は単なる奴隷にはならなかった。英語はフランス語に対抗して生き延びた。その過程で、自己主張の強い「主体性」を持った言語として、鋭角的に鍛えられていった。
さらに、そこに十字軍に始まるギリシャ文明の発見がある。ここからルネッサンスが始まる。いうまでもなく、ルネッサンスは神に代わり、人間をその中心の位置におく。人間は神の「従属物」(subject)ではない。人間こそ主人公なわけだ。こうした潮流が、行為者としての人間を「主語」の位置に押し上げた。その過程を見てみよう。
Me thinks there is much reason in his saying. (彼の言葉にもおおいにもっともな理由があるようだ)
これはシェークスピアからの引用だが、「I think」ではなく、「Me think」と書かれている。「Me」というのは「行為者」ではない。「行為を受ける者」であり、文字どおり「subject」なわけだ。これが少し時代が下がると、次のようになった。
It thinks to me that there is 〜
ここで「think」に主語として「It」が立てられている。「SVO」の構造が一般的になったあとでも、「I」を「think」の主体とは考えられなかった。そこで「think」の主語として、とりあえず「It」を置くことにした。同様に、「Me seems」は「It seems to me」である。「思われる」とか「見える」というのは、近代英語でも最後まで「主語」になることに抵抗している。
このように、近代英語では「think」の主体が「I」だとは意識されていなかった。現代英語では胸を張って「I think」と書いているが、「我思う」という断言は少し前までの人間にとって、必ずしも自明のことではなかったわけだ。
私たちが感じたり考えたりするのは、本当に自分の力で行われているのだろうか。もっと大きな力が私たちに働いて、そう感じさせられたり、そう考えさせられたりしているのではないだろうか。多くの人々はそんな風に考えてきたし、われわれ日本人の多くは今でもそう考えている。
私もしばしば「そう思われる」「そう考えられる」というふうに自然に「受動態」を使う。「I think」の世界には「主語」がある。しかし、「Me think」の世界に生きている私たちは、ともすると「自分で考える」という意識が希薄なのかも知れない。英語にかって「主語」がなかった理由、日本語にいまだに「主語」がない理由は、この「主体意識の未形成」ではないかと思われる。
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