橋本裕の日記
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2006年12月22日(金) 祖国を愛する心

 小学校の頃、昭和天皇が行幸にこられて、私たちは日章旗を手に持ってお迎えした。天皇陛下は帽子を頭の上に持ち上げて、私たちに笑顔で会釈された。人のよさそうなふつうの好々爺という感じだった。

 戦時中に皇国教育を受けられた戦中世代の方や、戦争に行かれた人は、天皇に対して、いろいろな感情があるだろう。昭和天皇の戦争責任を看過できない人もいるだろう。

 天皇が再び利用されるようなことがあってはならない。しかし、若い世代を見ていると、「愛国心」のトリックに再びひっかかりそうで、少し心配である。

 姜尚中(カン・サンジュン)さんの「愛国の作法」(岩波新書)に「国民新聞」の記者として明治時代に健筆を揮った竹越与三郎の「人民読本」(明治34年)が引用してある。

<もし過ちて、何事も我国民の為になしたることは是なりとするが如きことあれば、これ真正の愛国心にあらずして、虚偽の愛国心なることを忘るることなかれ。・・・愛国心あるものは、起って国家の過失を鳴らして、これを矯正せざるべからず。この時に方りては、国家の過失を鳴らすことは、すなわち愛国の所業なり>

 竹越はまた、「己を愛する心を押し広げて、国民全体を愛するの心事より出でんには、一として愛国の所業ならざるはなし」とも書いている。つまり、自愛心の延長に、「愛国心」があるという立場だ。

 自己を愛するように隣人を愛する心は、キリストの博愛にも通じる。家族を愛し、郷土を愛し、その延長で国を愛し、そして世界の人々を愛する。こうしたおおらかなところがいい。少なくともこうした愛国心からは戦争は生まれない。

 しかし愛国心はむしろ、自愛心からではなく、利己的で偏狭なプライドから生まれる。それは他者に対する敵意や軽蔑をふくむ。こうした排他的な愛国心から、戦争が生み出されていく。

 さらにもう少し考えてみる。そもそも「国家」というのは何者なのだろうか。家族や郷土の自然な延長として国をとらえることに問題はないのか。じつのところ姜尚中(カン・サンジュン)さんは「愛国の作法」で「愛国は愛郷の延長ではない」とはっきり断定している。

<近代的な意味で立憲主義に基づく国とは、歴史や伝統や文化ではなく、人々の意志的な結合によって成り立つ「国民」(デーモスとしてのネーション)国家(人工国家)のはずです。この意味で、国家は、「公共社会」を主観的に担う国民の不断の作為的な営為によって成り立っているのです>

 そもそも国家とは自然な産物ではなく、人工的な社会組織にすぎないわけだ。それがいつの間に家族や郷土の延長として同心円的に捉えられていく。そして、自我愛、家族愛、郷土愛の延長として、国家愛があたかも実体を持つもののように立ちあがり、この幻想が共有されていく。

 カントリーとしての「国」は権力を帯びていない。それは美しい自然であったり、親しい友人であったりする。しかし、ステートとしての「国家」は権力を持ち、人々を統治する。こうしたステートとしての人為的存在としての「国家」を理解する政治感覚が日本人は鈍いのではないか。

<若者たちが、自分たちが生まれ育った国を自然に愛する気ちをもつようになるには、教育の現場や地域で、まずは、郷土愛をはぐくむことが必要だ。国に対する帰属意識はその延長上で醸成されるのではないだろうか>(安倍「美しい国へ」)

 姜尚中さんは著作の中で、「権力政治の自己認識の欠片さえもない」と安倍首相のこの政治感覚の欠如した文章を批判している。そして。これに対比して、つぎの文章を引いている。

<国家とは、ある一定の領域の内部で、正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体である>(マックス・ウェーバー「職業としての政治」)

<国家は、自分の家族といふ如き自然的愛情の直接の対象ではなく、実は人間の感覚や経験を越えた抽象的なものであって、想像力に頼らなければ、これを具体的に掴むことはできない>(清水幾太郎「愛国心」)

 国家というものがこうした人工的な産物であるという認識は現代政治学の常識だとすると、この常識が学校でまともに教えられていないことが問題だ。それとは反対に、「国家」をあたかも永劫の過去から存在した何かとても神聖なもののようにあつかう神話的な国家観が幅をきかせはじめた。これはとても危険なことだと思う。

 国家は個人生活を安全で豊かにするために人工的に存在するのであり、個人の上に立って思想・心情にまで介入することはあってはならない。こうした考え方が共有されれば、この世界はもっと住み良いものになるだろう。

 しかし、私は国家が人工の産物であり、将来これを消却すべしという「国家不要論」(政治不要論)にも疑問を持っている。それは現代のような弱肉強食のグローバリズムが進行するなかで、個人は「国家」という城壁をうしなうとき、限りなく無力な存在に陥るという現実があるからだ。現にこうした庇護を失って孤立した若者たちが、国家への過剰な期待と幻想を抱いて保守化している。

 私自身は「国家」は私たちの生活を守る上で、とても大切な存在だと考えている。そして、よりよい「日本」を建設するために努力を惜しまないことが国民としての義務だと考えている。姜尚中さんも「愛国の作法」で南原繁さんの次の言葉を、ある戸惑いを隠さずに引いている。

<この祖国をして、内は同胞とともに自由を享受する住みよい国土とすると同時に、外は世界の平和と文化に寄与する偉大な国民たらしめたいのである。それこそ真の祖国愛でなければならぬ。いまの日本に欠けているのは、青年の心に訴える、そうした民族の理想とヴィジョンと情熱であろう>

 南原さんのいう「祖国愛」をどう評価するか、私もこの言葉に前に立ち止まって思案を巡らせている。「愛国心」の強制に怒りを覚えながらも、自分をまっとうな愛国者であると考える。そして、自分の中で熱く燃え滾る「祖国愛」を否定しきれない。こんな私は古い体質の人間なのだろうか。


橋本裕 |MAILHomePage

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