橋本裕の日記
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| 2006年12月03日(日) |
社会体験としてのいじめ |
五木寛之さんが「週刊現代12/9号」の「新・風に吹かれて」に、ご自分のいじめ体験を書いている。五木さんは小学校・中学校で6度の転向を体験している。そして、「いじめ」を受けていたそうだ。
<転校生はまず、いじめられる。まず、奇異の目でみられ、それから近づいてきてにおいをかがれる。ちょっと小突いてみたり、さまざまなボディー・ランゲージのあと、本格的ないじめがはじまります。言葉が違うことが、まずいじめの原因としては大きい>
<地元の方言が使えないことでいじめられるのは、ごく普通のことだった。そのほか、あらゆる面で違和感をあたえる存在が、転校生というやつだ>
私も小学生のころ、父親の仕事の都合で3回の転向を経験しており、五木さんの苦労話を読みながら、「ああ、そういえば、いろいろと転校生の苦労はあったな」と、過去をふりかえった。
2度目に若狭小浜の小学校に転向したとき、朝礼が終わって教室に帰ってくるなり、後ろの席の少年にいきなり後頭部をなぐられた。その理由は「まっすぐ整列しなかったから」というものだった。このいきなりの暴力の洗礼に私はびっくりした。それからいろいろなことがあった。五木さんが受けたいじめは、たとえばこんな風だったという。
「こいつの弁当のおかず、いつでも高菜の漬物ばっかたい。きょうもそうじゃろうが」 「ちがうかばい」 「嘘いうな」
このあと、周りを取り巻かれ、ボス格の生徒に力ずくで弁当箱をうばわれ、その日も高菜のおかずしか入っていないのを暴露される。五木さんは、タカナ、タカナ、といっせいにはやし立てられ、嘘つきというあだ名までもらったそうだ。
「おい、タカナの番だぞ」 「おい、こらウソつき」
<そんなわけで、いつのまにか異邦人として転入することに慣れてしまったらしい。いじめからはじまるコミュニケーションに免疫力がついてきたのだろう>
「いじめ」はたしかに昔からあった。私も「いじめ」を受けて、かなり「免疫力」がついた方だが、今のいじめは何かもう少し陰惨な感じがする。五木さんは、昔は「嘘をついたら地獄に落ちるぞ」といわれて、たいていの子どもはたじろいだという。
しかし、今の子どもは「地獄」の脅しはきかない。怖い存在がなくなって、心理的に歯止めが利かなくなっているのだろうか。その分、教師や親のこまやかな対応が求められている。いじめの兆候を見逃さず、初期の段階でこれに対応していくことも大切だと思う。
しかし、もう少し本音をいうと、「学校でいじめはあってならない」というのはきれいごとで、私は「学校でいじめはあって当然」というのが私の思いだ。社会そのものが不正義や悪にみちているわけで、いわば子どもの社会もその縮図である。五木さんもこう書いていた。
<大人の世界は、いじめそのものだ。それが洗練されたかたちをとっているから、格差とよばれる。それをどうするかが大きな問題になっている>
格差はあたりまえ、リストラされるのも貧困も自己責任だ、という考え方もあるが、「格差」を「洗練されたいじめ」と捉える感覚は、いじめられた体験を持つ人間らしい発想かもしれない。私はいじめられたことでつらい思いをしたが、反面では社会へと視野がひろがり、精神的にも成長できた。
今こうしてHPに民主主義や反戦をテーマにさまざなま文章を書いたり、日本社会の格差社会の現実に悲しみといきどおりを覚えるのも、この体験と無縁ではないように思う。社会の「いじめ」もふくめた<悪>にいかに対処すべきか、これを小学校の段階で学ぶことができたのは、いい勉強だった。
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