橋本裕の日記
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| 2006年12月01日(金) |
権力を甘く見るなかれ |
孔子は「信なくば立たず」と言ったが、政治であれ経済であれ、個人生活であれ、「信」はとても大切である。これがなければ、私たちの社会は瓦解する。それでは何がこの「信」を社会にもたらすのか。ここで二つの考え方がある。
ひとつは人間性善説をとる人たちで、個人と個人の「信」を媒介にして、大きな社会的な信用がつくられるという考えだ。こういう人たちはあまり国にたよらない。身の回りから信頼にみちた美しい世界を創ろうと努力する。
もう一つは、人間性悪説をとる人たちで、隣人愛ではなく、もっと大きな社会的な秩序によって「信」がつくられると考える。そしてこの社会的な力の結果として、個人的な信頼関係も可能になるという立場だ。
たしかに人間の善意や友情に信を置くことのできない人が、個人をこえた国家のような存在に救いをもとめようとするのは自然なことだ。そして強力な国家や法律がなければ、社会は混乱すると考える。これはホッブスの「リバイアサン」の考え方だ。ここから夜警国家の考え方がでてくる。
今後経済格差が深刻になり、生存競争が激化すると、こうした考えが蔓延し、競争を勝ち抜いた勝ち組も競争に負けた人たちも、おなじく人間不信におちいる。そうすると、いよいよ人々はイソップ物語にでてくるカエルたちのように、自分たちを救ってくれる神々しい国家を求めるかもしれない。しかし、歴史を繙いてみて分かることは、国家権力は個人と比較にならないほど強力で恐ろしい存在だということだ。
実のところ、人間の歴史の半分は権力の横暴をどう押さえるかに費やされたといってもよい。その成果がロックの三権分立の思想であり、「主権在民」や民主主義の思想だ。
日本も苦い体験を味わった。そしてふたたびこの辛酸を味わうことがないように、個人を国家権力の横暴から守る守護神として「憲法」を採用した。
この守護神たる憲法を破壊し、国家権力という恐ろしい野獣をのさばらせてはいけない。人間に絶望するあまり、国家に救いを求めたりすると、われわれは国家からもっと恐ろしい仕打ちをうけるかもしれない。そのとき、人はどうするのか。もはや現世逃避の宗教にでも走るしかないだろう。
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