橋本裕の日記
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2006年11月29日(水) ディベート禁句集

 日本人は議論が苦手だという。それはそうした教育を受けていないことも多いのだろう。つまり、ルールを知らないので、平気でルール破りをする。これからは学校でもディベートのルールをしっかり教える必要があるように思う。もし私のクラスでディベートするとしたら、まず、簡単な禁句集をつくるだろう。そしてなぜそれが「禁句」であるかを説明するわけだ。その禁句の代表的なものを2つあげておこう。

(1)「あなたは馬鹿だ」(誹謗と中傷)

 これは相手の人格攻撃になるので駄目。これが禁句であることは説明を要しないと思うが、なかなか守られないのが現状である。これを口にした人は、即座に退場処分にするのがよい。そうしないとディベートの場が荒らされるからである。

(2)「あなたは間違っている」(独善)

 残念ながらこれが「禁句」であることについて、ほとんどの日本人は無自覚なのではないだろうか。英語では普通に、「I don't agree with you.」を使う。これは勿論禁句ではない。しかし、これと同じような感覚で、「あなたは間違っている」(you are wrong.)を使う人がいる。しかも、その間違いに気付かない。

 私が「〜は○だ」と主張したとする。これについて異論を唱えるとにのAさんのマナーは、ルールに従えば次のようになる。

「私はそうは考えません。〜は×だと考えます。その理由は△△だからです。この点で、私はあなたの主張に同意できません」

 これならOKである。今後二人の間で建設的で気持のよいディベートが展開されるだろう。デベートの場合、競技者は審判者になってはいけない。「あなたは間違っている」と神の立場で審判を下す権利は競技者にはない。これはディベートのイロハであるが、この肝心なことが守れないので、ディベートが論争でなく、誹謗中傷の場になることが多い。

 ところで、「安倍首相は馬鹿だ」という表現はどうだろう。これは禁句というより、ディベートにはありえない表現だ。「馬鹿」というのは主観的な判断であり、こうした言辞がディベートに現れることはないはずだからだ。もし使われたとしたら、これはあきらかにディベート本来の領域からの逸脱である。つまり、「安倍首相は馬鹿かそうでないか」というような問題は、そもそもディベートのテーマにはなりえないわけだ。あくまで客観的に○×の判断がつくものでなければならない。たとえば、明治時代にはこのような題でしきりにディベートが行われたという。

「普通選挙ト制限選挙ノ可否」
「女子ニ選挙権ノミヲ與フルノ可否」
「死刑ヲ廃スルノ可否」
「自由貿易ノ保護貿易ノ可否」

 これに対して、「〜について、安倍首相はまちがっている」という表現は問題はない。もちろんその論拠を示す必要はある。これも「独善」ではないかという人がいるかも知れないが、そもそもディベートというのは「○○について、正しいか否かを争う競技」であり、こういう決めつけがなければ論争にならない。

 セブの英語学校で、先生と「お金は人を幸福にするかどうか」をテーマにディベートをしたことがあった。私は「お金があれば人間は幸福になれる」という立場で論じた。自分はそう思っていないのだが、あえてこの立場に立って、相手を論破するためにない知恵を振り絞った。しかし、残念ながら私の負け(降参)だった。つぎに立場を変えて同じテーマで論争したが、今度も私が立ち往生した。英語ができなかったことも敗因の一だった。

 私はディベートで大切なのは、あくまで論争の過程を通して「思考力」や「情報収集力」を磨き、なおかつフェア・プレイの精神を養うことだと思っている。勝ち負けだけに拘っていては、こうした能力は身につかず、論争上手にもなれない。なおこうしたディベートの負の側面については「ウィキペディア(Wikipedia)」に次のように書かれている。

<ディベートの起源が古代ギリシアの修辞学にあるとされる通り、まさにディベートの生みの親は、古代ギリシアのソピステースたちだとも言える。しかしソピステースの議論は、いかに相手を言い負かすか、あるいは聴衆を納得させるかという形式的な技術の開発に主眼点が置かれ、ここより詭弁論法の発生を見、そこからの反省として、「論理的とは何か」という問題が、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなどを通じて、大きな課題として考えられ、古典的な「論理学」もここから生まれた。

政治的な場でのディベート、教育目的としてのディベート、あるいはゲームとしてのディベート、いずれを取って見ても、論理的な妥当性を確保するという面と、他方で、議論に勝てば良いという面の二つが拮抗し、誰が「判定」するのかという面も相俟って、とりわけアメリカのディベートは、詭弁論法への熟達や、その場で言い負かせば良いのだというような実利性を重視し、「論理性」と反対のモメントへと向かう傾向がある。このような詭弁的なディベートの興隆は、訴訟社会としての米国というような、社会学的に異常な事態と表裏の関係を成しているとも考えられる>

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88

 日本でも同様の傾向がうかがえる。私も自分のHPの掲示板で「対話」や「ディベート」を呼びかけてみたが、結局、誹謗・中傷と独善の傾向があらわれ、中止するのやむなきにいたった。参加者に「ディベート」の心得がなかったこともあるが、掲示板を運営・管理する私自身の力量不足を痛感した。


橋本裕 |MAILHomePage

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