橋本裕の日記
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| 2006年11月23日(木) |
異常が正常となる世界 |
大岡昇平の「野火」が読みたくなって、久しぶりに新潮文庫を取りだして読みました。この小説は何度読んでも大きな感銘を受けます。「野火」はこのようにはじまっています。
<私は頬を打たれた。分隊長は早口に、ほぼ次のようにいった。 「馬鹿やろう。帰れっていわれて、黙って帰ってくる奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ。そうすりゃ病院だってなんとかしてくれるんだ。中隊にゃお前みてえな肺病病みを、飼っとく余裕はねえ。見ろ、兵隊はあらかた、食料収集に出勤している。味方は苦戦だ。役に立たねえ兵隊を、飼っとく余裕はねえ。病院へ帰れ。入れてくんなかったら、幾日でも坐りこむんだよ。まさかほっときもしねえさろう。そうでも入れてくんなかったら、死ぬんだよ。手榴弾は無駄に受領しているんじゃねえぞ。それが今じゃお前のたった一つのご奉公だぞ> 主人公の<私>はこうして異国の原野に投げ出されます。あちこちに<野火>が戦いののろしのように上がり、主人公は敵兵や地元民のゲリラ、そして友軍日本軍兵士にまで命をねらわれます。
そこで交わされる兵隊達の会話を少しだけ抜き出してみます。病気になり部隊を追い出されたものの、病院でも受け入れてもらえず、行き場を失った兵隊たちの会話です。
「また、帰ってきたのか」 「そうさ、やっぱり中隊じゃ入れてくれなかった」 「でも、ここへ来たってしょうがあるめえに」 「行くところがないからさ」
「おい、糧秣いくら持っている」 「ははは、6本ありゃ豪勢だ。お前の中隊は気前がいい。俺んところは2本しか寄越さねえ。それが今じゃ一本よ」
「あーあ、俺達はどうなるのかなあ」 「いっそ米さんが来てくれた方がいいかも知れねえな。俺達はどうせ中隊からおっぽり出されたんだから、無理に戦争することあないわけだ。一括げに俘虜にしてくれるといいな」 「殺されるだろう」 「殺すもんか。あっちじゃ俘虜になるは名誉だっていうぜ。よくもそこまで奮闘したってね。コーン・ビーフが腹一杯食えらあ」 「よせ。貴様それでも日本人か」
「ニューギニアで人間を食ったって、ほんとですか」 「人間か。・・・まさか、ってことにしておこう」
「要するに下士官なんて、心で何を思っているのか、わかんねえものさ。俺は部下だから、離れるわけにはいかねえが、お前は勝手な体だ。補充兵一人じゃ、さぞ心細かろうが、とにかく一人で行ったがいいじゃないか。それが一番だ」
「燃える、燃える。早い、実に早く沈むなあ。地球が廻っているんだよ。だから太陽が沈むんだ」
「おい、いこうか」 「暗いな、まだ夜は明けていなかな」 「もう開けたよ。鳥が鳴いている」 「鳥じゃないよ。あれは蟻だよ。蟻が唸っているんだよ。馬鹿だな。お前は」
「帰りたい。帰らしてくれ。戦争をよしてくれ。俺は仏だ。南無阿弥陀仏。なんまいだぶ。合掌」
「何だ、お前まだいたのかい。可哀そうに。俺が死んだら、ここを食べていいよ」
主人公は逃亡中にフィリピンの若い女を射殺してしまいます。そして、友軍の兵士にまで銃を向けます。それは自分が人肉にされないためのぎりぎりの選択でした。こうして彼は殺人をおかしました。そして、「人肉を食べたい」という欲求にうち負かされそうになりました。しかし、彼の行動は「異常」とは言えないと思います。ヴィクトル・フランクルも「夜と霧」にこう書いています。
<異常な状況における正常な反応は異常な行動をとることである>
まさに、戦場においては「異常な行動」が「正常な行動」になってしまいます。ここが戦争の恐ろしいところです。彼はついに捕虜になり、日本に帰還しますが、この過酷な体験のために精神病を発病し、精神病院に入れられます。「正常な行動」を「異常」として自己嫌悪した主人公の<私>が、「狂人」として精神病院に収容されてしまう。これもまた恐ろしいことです。「野火」は精神病院で医療の一環として書かれたことになっています。
<私が復員後取りつくろわねばならなぬ生活が、どうしてこう私の欲しないことばかりさせたがるのか、不思議でならない。この田舎にも朝夕配られて来る新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼らに欺されたいらしい人たちを私は理解できない。おそらく彼らは私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼らは思い知るであろう。戦争を知らない人間は半分は子供である>(「野火 37 狂人日記」)
大岡昇平がこの小説を書いていた頃、朝鮮戦争が勃発しています。主人公の口を借りて、作者のやむにやまれぬ本音が露呈しているように思いました。
<一般大衆はテレビの前にじっと座り、人生で大切なのはたくさん物を買って、テレビドラマにあるような裕福な中流階級のように暮らし、調和や親米主義といった価値観を持つことだ、というメッセージを頭の中にたたき込まれていればよいのである>
これはチョムスキーの「メディア・コントロール」の中の言葉だそうです。民主主義は主体的に考えることのできる一人一人の市民の手で支えられています。マスメディアに支配され、無力な消費者になった大衆にとって、「民主主義」は荷が勝ちすぎるのです。そこで、民主主義は容易に衆愚主義に転落します。そしてそのなれの果てに出現するのが、「野火」という恐ろしい修羅世界なわけです。
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