橋本裕の日記
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2006年11月22日(水) 民主主義と全体主義

 先日衆議院で、教育基本法改正案が与党単独で可決された。タウンミーティングでの政府主導のやらせ質問や、高校での必修漏れなどの問題があきらかになり、その対応に追われる中での強行採決である。安倍首相は「深い議論を尽くした」と胸を張ったが、とてもそうは思えない。

 国会はたんなる議決機関ではない。戦時中、国会は軍国主義にそまり、軍部翼賛体制のもとで、たんなる議決機関と化した時代があった。憲政の神様といわれた尾崎行雄はこの惨状をみて、「国会議事堂ではなく、国会議決堂だ」と嘆いた。彼の言うとおり、国会はあくまで審議をする場である。そして国政上の問題を国民の前にあきらかにする義務がある。

 ましてや教育の憲法といわれた基本法の60年ぶりの改正である。その必要性が国会審議をとおして充分国民に理解されたとは思えない。この問題について世論の盛り上がりがなかったのは、マスコミの責任もある。与野党の全面対決と与党単独採決の異常事態で、ようやく国民の目が基本法に向いてきた。

 審議の場は参議院に移された。ここで充分「審議」をしてもらいたい。衆を頼んでの決着は「民主主義」ではない。多くの人は「多数決」を「民主主義」と勘違いしているが、これはとんでもない誤解である。ジョン・スチュアート・ミル(1806〜1873)は「自由論」で、「少数意見の尊重」こそが民主主義の原点であり、社会に多大な利益をもたらすものだと主張している。

<対立する二つの意見のうち、いずれか一方が他方よりも寛大に待遇されるだけではなく、特に鼓舞され激励されるべきだとすれば、それは少数意見の方である。少数意見こそ、多くは無視されている利益を代表し、またその正当な分け前にあずかることができないという恐れのある人類の福祉の一面を代表している意見なのである>

<意見の発表を沈黙させるということは、それが人類の利益を奪い取るということなのである。それは現代の人々の利益を奪うとともに、後代の人々の利益をも奪う。それはその意見をもっている人の利益を奪うだけではなく、その意見に反対の人々の利益さえ奪う。

 もしその意見が正しいものならば、人類は誤謬を捨てて真理をとる機会を奪われる。また、たとえその意見が誤っていても、これによって真理は一層明白に認識され、一層明らかな印象を与えてくれる。反対意見を沈黙させるということは、真理にとって少しも利益にならない>

<人間は間違いをおかすものだ。そして真理と考えられているものも、その多くは不十分な真理でしかない。意見の一致が得られたにせよ、それが対立する意見を十二分に比較した自由な討論の結果でない限り、それは望ましいことではない>

<反対者の意見をありのまま受け止める冷静さをもち、反対者に不利になるようないかなる事実をも誇張せず、また反対者に有利となる事実を隠そうとしない人々に対しては、彼らがどのような意見をもっていても、敬意を払わねばならない>

 民主主義が「多数の意見に従うこと」だけだったら、議会はいらない。ヒットラーが連発したように、国民投票をすればよい。そしてこれが実はファシズム(全体主義)の正体である。

 ファシズムといえば、ヒトラーや日本の軍部独裁を思い出す人も多いだろう。そのイメージは一部の独裁者が大勢の民衆を権力で押さえつける姿だ。ところがこれはファシズムのすべてではない。ファシズムの本質はむしろ大多数の民衆が少数者の人権を蹂躙する全体主義にある。つまり多数決の論理は、民主主義の論理よりもファシズムの論理として働く。

 これに対して、「民衆の一人一人の意見を大切にすること」が民主主義の精神である。まず第一に議会は「少数者の意見を聞く場所」であり、そしてそのうえで、少数意見を吟味し、多数意見のあやうさを克服することが大切だ。こうしたプロセスをとおして、民主主義がまがりなりに実現されるのだということを、私たちは歴史の教訓として肝に銘じておくべきだろう。こうした良識を、参議院の審議に期待したい。


橋本裕 |MAILHomePage

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