橋本裕の日記
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2006年11月21日(火) 独り言のたのしみ

 掲示板を改め、「独り言」を開設して、もう一ヶ月にもなるだろうか。この「独り言」というスタイルが気に入っている。「日記」も独り言には違いないが、記録して残そうという気持があるので、どこか格式ばってしまう。本音を押さえて、つい建前をかいている。

 その点「独り言」は時間がたてば消えていくので、気楽である。あとに残そうという気持はなく、ただ言いたいことを思いのままかく。もちろん掲示板として公開しているので、それなりのセーブをしているが「日記」ほど自己抑制はしない。誤字脱字が多少あっても気にしない。このほどよい自由さがいい。

 適当に書き流している「独り言」だが、これを書くようになってから、起床時間が遅くなった。以前は4時には起きてパソコンの前に坐り、2時間ほどかけてじっくり日記を書いていた。ところが最近は、目を覚ますと5時である。しかも床の中にいる時間が長くなった。6時ちかくまでぐずぐずしていて、6時になったら飛び起きて、20分ほどで日記を書いてしまう。もちろん、それはほとんど「独り言」からの拝借である。

 6時半頃になると、「ごはんですよ」と妻が呼ぶ。朝食の後、新聞を読んだり、テレビを見たり、読書をしたあと、朝の散歩に出かける。散歩から帰り、パソコンの前に坐る。そして、ぼちぼち「独り言」を書き始める。そのあと入浴、昼食である。毎日、これの繰り返しだ。ところで、哲学者の池田晶子さんが、「暮らしの哲学」(サンデー毎日10/29号)にこんなことを書いていた。

<ダイアローグとディベートは全く違うものですが、どうも人は、そのことをよくわかっていない。ソクラテスは、すでにこれを「真実を知るために行われる議論」と、「相手を言い負かすために行われる議論」と、はっきり区別しています。そしてそんな不毛はやめてしまえ、もし僕と議論したいなら、僕と同じ種類の人間になってから来いと、見栄を切る場面があります。

 じっさい、相手を言い負かすために議論をしかけてくる人と議論をするほどうんざりすることは滅多にないですね。その人の目的は相手を言い負かし、自分の意見を主張することであって、真実を知るためにものを考えるなんて、そんな行為が人間にあり得ることすら知らないような蒙昧な状態なわけです。

 よって、相手の話を聞く気が最初からないのだから、まあ話にはなりませんわ。そんな人々が集まって、開かれた対話の場と称して、ああだこうだとやっているのを見ると、独善家同士がお前は独善だと我を張り合っているとしか見えない。内なるダイアローグを知らない人に、外なるダイアローグは不可能です>

<話せる他者とは言うまでもなく、例の欲求(真理への愛)を共有する人のことですが、この部分で信頼しあっている者同士の対話というのは、興が乗ってくると、自分が言ったのだか相手が言ったのか、どっちでもよくなるものですね。ただお互いに真実に向かって思考を巡らせているというこの躍動感が心地よく、なるほどソクラテスと友人たちもこれにハマッタなとわかります。考えるということは、人を自由にしてくれます>

 ソクラテスは「思考とは自分自身との対話」だという。そして自己自身と対話ができる者のみが、他者とも実りある対話ができる。対話とは相手を言い負かすディベートではなく、ともに真実を追究するプロセスでもあるわけだ。これが楽しくないわけはない。

 モノローグをダイアローグにまで昇華させるためは、自己のなかに「他者」を持ち、自己をも「他者」として眺めるゆとりが必要である。そのためには狭隘な「自我」にとらわれていてはいけない。解脱してもっと大きな自由を手に入れなければならない。さて、私の「独り言」は「内なる対話」になっているだろうか。大いに修練して、いつかそうした「自由」を手に入れたいものだと思っている。


橋本裕 |MAILHomePage

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