橋本裕の日記
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蟻といえば働き者の代表だが、じつは実際にまじめに働いているのは意外に少なく、2割ほどの蟻が全体の8割ほどの食料をあつめてくるのだという。そこである学者が面白い実験をした。その優秀な2割の蟻だけあつめてきて、怠け者を排除したところ、やはり働き者ばかりの蟻の集団でも、たちまち2割しかまじめに働かなくなってしまった。
反対に怠け者ばかりの集団で実験しても、そのなかの2割が働き蟻に変身して、じっさい「2割で8割」という構造はかわらなかったという。これは「べき分布」の特徴である。つまり、「2割が8割を支配する」というパレートの法則が全体について成り立つとき、不思議なことにそれは部分をとって成り立っている。
このことに関して、国際大学GLOCOM所長の公文俊平さんが、「べき法則と民主主義」のなかでこんな例を引いている。
<私が入学した地方の私立中学校は中・高一貫教育で、その地方のよくできる子供たちを選りすぐってさらに鍛え上げる教育方針をとっていることで有名でした。受験の季節が近づくと校長先生は、毎年県内の各地に出かけていって、在校生の父兄と面談しながら有望な小学生はいないかと探してまわり、これはと思う生徒がいると聞くと直接面接したり、父兄に受験を勧誘したりしていました。
入学試験自体もかなりの競争率で、入学してきた子供たちは、出身小学校ではそれぞれがなかなかの秀才と目されていたはずでした。しかし、その粒選りの秀才たちの集まりが、いっしょに勉強を始めてみると、学力のばらつきの大きさには驚かされました。
どうしてこんなことを知っているのか、こんなに飲み込みが早いのかと驚かされる生徒がいるかと思うと、何かの間違いでこの学校に入ってきたのかと思うような生徒もいました。(もちろん同じことは、スポーツの能力や絵や音楽の能力についても言えたし、ひとつの尺度でみるとすぐれた生徒が別の尺度でみると箸にも棒にもかからない劣等生ということはいくらでもありましたが、それはまた別の話です。
その中で、トップクラスの連中は東大を目指しました。私も合格者の一人に入り、上京して東京で学生生活を送ることになりました。ところが、全国の秀才が集まっているはずの駒場のクラスでも、やはり同じような現象が見られました。
大学院でもそうでした。当時大学院に入るためには、優が四分の三以上なくてはならないと言われていたのですが、そこでも各人の学問的能力の懸隔にはそれこそ天地の差がありました。私はその中で、なんとか卒業してたまたま母校に就職したのですが、教授会の同僚をみると、そこにもたいへんな差があることがわかりました。“上には上がいる”という関係は、どこまでいってもはてしがないのです。(おなじことは、スポーツや芸術の世界でもいえるでしょう。>
これは上位者のグループの話だが、たとえば下位のグループでも同じような「べき構造化」が進むのではないかと思う。私が進学した私立高校のクラスは全員が県立高校の落第組だったが、3年間で「べき構造化」がかなり進んだ。つまりさらに学力が落ち込んで行ったグループが大勢いる一方で、学力が飛躍的に伸びて現役で国立一期校や早稲田大学など有名私立校に合格した者たちも出た。
同じようなことは、私は教師をしていて色々な学校で経験している。定時制の私のクラスでもおよそ2割ほどの生徒(わずか数名)が、積極的に働いていろいろな行事でイニシャティブを発揮してくれる。反面、残りの生徒はあまり積極的に動かない。パレートの法則は教師にとっては痛し痒しである。
パレートの法則から考えると、社会が成立するためには、全員が優秀である必要はない。2割がしっかりしていればよいわけだ。たとえどんなに悪がはびこっても、その流れに流されず、他人がどうであれ、不平不満をいわない本当の意味でエリートとよべる気骨のある人材が、どこの社会でも2割ほど存在する。
この核となる2割のエリート集団が崩壊したとき、その社会はもはや持ちこたえることができない。さて、日本社会はこの先大丈夫だろうか。
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