橋本裕の日記
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2006年11月13日(月) 人生の狭き門

「強い人間になりたいか、弱い人間になりたいか」と尋ねられたら、多くの人は、「強い人間になりたい」と答えるのではないだろうか。映画のヒーローも強い人間である。強い人間はクールで、格好が良い。

 それでは、「幸運に恵まれた安楽な人生を生きたいか、つらいことばかりの不運な人生を生きたいか」と訊かれたらどう答えるだろう。これも多くの人は「幸運な人生」を求めるだろう。

 このふたつをあわせるとどうなるか。「幸運に恵まれた人生を、強い人間として生きたい」ということになる。しかし、これはちょっとむつかしい。

 強い人間になるためには、様々な困難に遭遇し、これを乗り越えて行かねばならない。つまり、強い人間は逆境のなかから生まれるわけだ。まさに「艱難辛苦」が「汝を玉」にするわけだ。英語で言えばこうだろうか。

 Misfortune makes us strong.

 強い人間になりたい人は、逆境をも愛さなければならない。艱難辛苦よ、我に来いと、むしろ不運や不遇であることを求めるくらいでなければならない。

 だから強い人間になりたいと思う人は、逆境の時こそ「今こそ自分があこがれていた強い人間になるチャンスだ」と思わなければならない。

 安楽な運命をもとめ、しかも強い人間になりたいというのは、虫のいい話である。安楽な運命を求める人は、クラゲのように背骨をもたず、意志の力もなく、確固たる自己をも持てない弱い人間になるしかない。したがって、私たちが受け入れる望ましい人生の選択はおよそ、つぎのようなものである。

(1)不幸な出来事が次々と襲いかかる。しかしそれにもかかわらず、それにうちかって、独立自尊の強い人間になる。

(2)しっかりとした自己はないが、幸運にめぐまれたおかげで、平穏無事に安楽な人生を過ごすことができる。

 さて、「幸福の門」と「不幸の門」のどちらを選ぼうか。「不幸の門」を選び取るだけの勇気があるだろうか。たとえ惰弱な自己に甘んじても、幸運な人生を生きたいと願うのが人情ではないだろうか。しかし聖書にはこう書かれている。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ伝第7章第13節)

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ伝第14章6節)

 キリストは「命に通じる門」は狭いという。そしてその先の道も狭く、けわしそうだ。たしかに「さとり」に至る道は険しく、自己解脱もまた容易ではないのだろう。しかし、それでもこの険しさを好んで通っていく人はいる。そうした人たちが偉人と呼ばれるのかも知れない。


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