橋本裕の日記
DiaryINDEXpastwill


2006年11月11日(土) 豊かさは家族の団欒から

 二人の娘が幼い頃、私は夜間高校の教師をしていて、午後おそくまで家にいた。朝、一緒に食卓を囲み、昼食も一緒である。近所の公園へ子供を連れて遊びに行ったり、娘二人を風呂に入れるのも私の役割だった。

 その頃、バブルが加熱し始めたころで、多くの父親は朝早く出かけて、夜遅く帰っていた。その情況は今も改善していないのかもしれない。単身赴任で、家族と別居している父親もいるだろう。

 このことを私は残念に思う。それは父親から子どもとふれあう機会を奪い、子育ての楽しみを奪うからだ。子どもたちと一緒にいる時間が長いと、いろいろなことが分かる。子育ての喜びばかりでなく、つらさもわかる。

 近くに公務員宿舎があった。その敷地の公園に遊びに行くと、いじわるな女の子がいて、娘にブランコを使わせないようにする。その子は娘の顔を見ると、駈けてきて空いているブランコに飛び乗り、他の子にも「早く、とられるわよ」とけしかける。そのくせ、私たちが離れると、これみよがしに彼女たちもブランコを離れる。

 ほんとうに感じの悪い女の子だった。私は仕方なく、娘の手を引いて、少し遠くの公園まで歩いた。口惜しくてつらい思いを、幼い娘とわかちあいながら・・・。

 上の娘が小学2年生になり、下の子も幼稚園の年長組になったころ、私は再び全日制の高校に戻った。これによって朝食と夕食を子供たちと一緒にすることができた。もし、この時期、私が夜間高校に在職していたら、子供たちとはすれ違いになっていただろう。

 去年長女は就職し、次女も20歳をこえた。そして、私もまた定時制の夜間高校に転職した。昔と違い、家の中はいつも静かである。毎日散歩に行くが、私のかたわらに娘たちの笑顔はない。お風呂に入るのもひとり。これはこれでいい。ようやく私にも自分の時間が戻ってきたのだから。

 しかし、子供たちが幼い頃、あるいは思春期のむつかしい時期に、毎朝、毎晩、顔を合わせて食事をし、あれこれと何気ない会話を交わすことは、子育てには大切なことだ。少子化社会の日本に必要なのは、この心のゆとりではないか。

 家庭から父親や母親を奪うことはしてはならない。そうしたコンセンサスを、日本の社会が持てるのはいつの日だろう。もし、そうした家族と人にやさしい社会が到来したら、そのときこそ私たちは日本が豊かになったと実感できるのではないだろうか。

(今日は朝6時頃から家族4人、長女の車で大阪に遊びに行きます。それから御在所の湯の山温泉に泊まります。お天気が心配ですが、明日は御在所岳に登りたい。明日の日記の更新は夜中になりそうです)


橋本裕 |MAILHomePage

My追加