橋本裕の日記
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フィリピンからの帰り、乗り換えのマニラ空港で、不機嫌な家族の一団に出会った。父親が「ほんとうにフィリピンはつまらないところだな」と家族にいい、近くで乗り継ぎを待っている私たちにも語りかけてくる。
私は黙っていたが、近くの若い女性たちの一団が、「私たちは研修でやってきたので、あんまりわかりませんが・・・」と戸惑い気味に返していた。
私はフィリピンでもセブしか知らないが、人に訊かれれば「いいところですよ」と答えるだろう。しかし、それは英語を勉強するという目標があるからかもしれない。観光地としてセブがそれほど魅力的かと訊かれたら、「さあ、それは人によるでしょうね」と答えるしかない。
セブ市には貧しい人たちがひしめいている。夜の街を歩くのは怖い。街の大半はスラム街だ。家の軒先のベンチに、老いも若いも、日長ひまそうに、裸同然の姿で坐っている。失業しているというわけでもなさそうだ。どうも「働く」という観念がないのではなかと疑われる。
田舎へ行っても同じことだ。家の前の木陰で、男も女も何もするでもなく裸同然で坐っている。働くのは1日のうち、ほんの数時間ではなかろうか。いや、ほとんどの人はただぼんやりして一日を過ごし、一生を終えていくようにさえ見える。
こんな人生は耐えきれないと、多くの日本人は考えるだろう。そしてこうした怠惰な人々を軽蔑するかもしれない。私も「こんな風だからフィリピンは発展しないのだ」と考える。
なぜ、彼等は本を読まないのだろう。なぜ、彼等はもっと勉強しないのだろう。向学心も、向上心もないから、粗末な板葺きの家に住み、いつまでも犬や猫のようなきりぎりの生活をよぎなくされている。
しかし、一方で「こんな楽な人生もあるのだ」と感心もする。とくに田舎に行くと、人間がこんなふうに無為自然に生きられるということに、羨望すら憶える。いや、尊敬さえ覚える。私などとてもこうした無為徒食の生活に耐えられそうもない。
テレビも映画も、図書館もインターネットもない生活。食べるものと言えば、バナナや椰子の実の汁、近くの海で採れた魚など、自然に存在するものばかり。一年中パンツ一枚で、寝ころんでごろごろしていても良いと言われても、退屈で死にそうになるのではないか。ところが彼等はそれを少しも苦にしない。そうした人生をまのあたりにみせつけられると、もう「脱帽」したくなる。
セブには犬が多かった。都会でも田舎でもまったくの放し飼いである。そして犬も人間同様、じつにのんびりしている。私は犬が吠えたり喧嘩をしているのをみたことがない。彼等は人間にも友好的だし、目の前をニワトリのヒナが歩いていても、猫が歩いていても襲いかかろうとはしない。日本の犬のようなとげとげしい表情がまったくない。人や犬やニワトリをながめていても、随分日本と違う。
こうした世界から日本に帰ってくると、さすが日本は清潔で、管理の行き届いたすばらしい文明国だと思う。しかし、一方で、なにやらむしょうにセブのあの田舎の生ぬるいのどかさがなつかしくなる。そしてまたぜひに訪れてみたいと思うのだ。
ところで、昨日紹介した「2割が8割を制する」というパレートの法則は、ものごとは10割やる必要はない。基本を押さえて、そこに集中すれば充分だということだ。本を読む場合でも、全部読まなくても、大切なことは2割だけ読めば大方わかる。このコツを身につければ、ずぼらというか、手抜きができる。
この要領を身につけるために、一番大切なのは、何が人生で大切か、「ものごとの本質を見定めること」だろう。人生で何が大切かがわかれば、余計なことに振り回されず、あくせくしなくて、「シンプルに生きる」ことがでる。フィリピンの人たちを見ていると、人生で大切なのはお金でもなく、知識でもなく、名誉や権力でもなく、ただ「家族や友人とともに楽しく生きる」ということではないかと思われてくる。
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