橋本裕の日記
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2006年09月26日(火) 子猫殺しは許されるか

 日本経済新聞の8/18の夕刊に、直木賞作家の板東眞砂子さんが、「子猫殺し」という刺激的なエッセーを書いた。これがネットやマスメディアで議論を呼び起こしている。

 板東さんはタヒチに住んでいる。自宅で3匹の雌ネコを飼っているが、避妊手術をしていないので子供を産む。彼女はその生まれたての子猫を崖の下に放り投げて殺すのだという。

 何とも残酷で殺伐とした話である。これを読めば、だれしも不愉快になるだろう。そして怒りを覚える。その怒りは、これを実行し、しかも新聞にその行為を発表し、しかも報酬を得ている著者に向かう。あるいはこうしたエッセーを掲載したメディアにも向かう。

 それにしても、何故、彼女は飼い猫に避妊手術を施さなかったのか。これについて、彼女はこう説明している。

<私は自分の育ててきた猫の「生」の充実を選び、社会に対する責任として子猫殺しを選択した。もちろん、それに伴う殺しの痛み、悲しみも引き受けてのことである>

 もし、自分が猫の立場なら、どうだろう。避妊手術を受けたいだろうか。そのようにして性を強制的に奪われてまで生きたいだろうか。こう考えた彼女は、「人に他の生物について避妊手術を行う権利などない」という結論にたどりついた。

 また、猫を家に閉じこめておく権利もない。猫は自らの生の法則に従い、なるべく自然に生きることを望むのではないか。そうすると、必然的に子猫が生まれる。この子猫をどうするかという問題がうまれる。

 これをすべて家で飼うことはできない。飼うことを始めればきりがないからだ。それこそ何十匹、何百匹という猫を飼うはめにおちいるだろう。それでは、生まれた子猫を捨てたらどうか。

 子猫はやがて餓死するか、野良猫となって社会の厄介ものになるだろう。だから、猫を捨てるということは、買い主としての社会的責任を放棄するということだ。

 猫の気持を考えれば猫の避妊もできない。社会の迷惑を考えれば生まれた子猫を捨てることもできない。しかももらい手もないとすれば、どんな選択肢が残されているのか。日本ならば保健所に引き取って貰うことも可能だろうが、タヒチではそうした行政サービスはないのだろう。かくして、彼女は必然的に自らの手で殺す道を選ぶしかなかった。

 もちろん人間に子猫を殺す権利がないことは彼女も知っていて、「生まれた子を殺す権利もない」と書いている。罪を意識した上で、みずからその罪を被りながら殺すわけだ。

 板東さんのエッセーを読んでみて、今ひとつわからないのは、どういう経緯で彼女が3匹の猫を飼うようになったのかということだ。彼女は書いていないが、たぶん捨て猫を拾ったのだろう。最初はかわいそうにということだったのかもしれない。しかし、捨て猫を飼うということがどういうことか、飼ってみてその重みがわかったのではないだろうか。

 こういう世界に深入りしないためには、捨て猫など拾わなければよいのだが、これはこれで、つらいことではないだろうか。以前、私の家の庭に捨てられた子猫が住みついて、毎晩泣いていたことがあった。

 幼い娘達は可哀想に思い、餌をやりたがったが、私も妻もこれを禁じた。飼う気がないのに餌をやるわけにはいかない。といって保健所に連絡する気もなかった。だれか哀れに思って引き取ってくれるかも知れないからだ。(そして、じっさい、その通りになった)

 この問題については、作家の東野圭吾さんも週刊文春に文章を寄せている。東野さんも捨て猫を拾い、家で飼っているのだという。彼の場合は、避妊手術を施した。しかし、それは一般常識にしたがったもので、猫の「生」の問題を考え詰めてのことではなかった。彼は彼女の文章を読み返すことによって、この問題の根の深さに気付いたのだという。

<私は罪深い人間だ。猫を飼うという習慣を容認し、実際に自ら飼い、多くの捨て猫が保健所で処分されている現実をしっていながら何もしていない。そんな私に彼女を非難する視覚などない。自らの苦痛を引き受けながら、愛猫たちの「生」を守ろうとしている板東眞砂子に対する反論など、何ひとつ浮かばない。自分に罪がないと確信している人間だけが彼女を非難すればよい>

 東野さんはこの問題を理解するキーワードは「もし猫が言葉を話せるならば」だという。人間の勝手な思いこみではなく、猫の立場に身を置いてこの問題を考えようというわけだ。さて、本当のところ、子供を殺された親猫はどう考えているのだろう。それから、殺された子猫の気持も聞いてみたいものだ。


橋本裕 |MAILHomePage

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