橋本裕の日記
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2006年09月24日(日) 主権者であり続けるために

 9月21日、東京地裁は「入学式や卒業式で、日の丸に向かっての起立や君が代の斉唱を強要するのは不当だ」とする401人からなる教職員の訴訟に対して、「都教委の通達や職務命令は少数者の思想・良心の自由を侵害する」として違憲・違法との判決を下しました。

 教育の現場における国旗を前にした起立や国歌斉唱の強要は、思想・良心の自由を保障する憲法19条や、「教育は不当な支配に服してはならない」との教育基本法第10条にも違反すると述べています。そして、国旗・国歌を自然に定着させることのが国旗・国家法の趣旨であると述べています。

 この訴訟に参加した原告の一人は、「いつも行動を監視され、自分もどんな扱いを受けるのかと、息苦しい毎日だった」と証言していますが、その精神的労苦は想像するにあまりあります。そうした困難にもかかわらずよく闘ってくれたと、先ずは彼らの勇気をたたえたいと思います。

 戦時中、教師は軍国主義の風潮に抗しきれず、あるいは迎合して、多くの教え子を戦場に送り出しました。もちろん、国の政策に反対して、職を辞した人もいますが、多くの教師はそうではありませんでした。教員にかぎらず、学者やジャーナリスト、政治家もまた、その多くは時代に迎合し、なかには軍国主義の先兵となりました。戦後、こうした権力に迎合的な日本人のありかたが反省されました。

 なぜ、日本人はお上に弱く、個人の権利をやすやすと手放してしまうのでしょう。そして、人権意識が薄弱なのでしょう。丸山真男さんは、こうした問題を深く考えた代表的知識人ですが、岩波新書の『日本の思想』(1961年)に次のように書いています。

<日本国憲法第12条を開いてみましょう。そこには「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」と記されてあります。この規定を若干読み替えてみますと、「国民は今や主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目覚めてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ」という警告になっているわけなのです。

 自由は置物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる。いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。その意味では近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえ何とか安全に過ごせたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々とよりかかっていたい気性の持ち主などにとっては、はなはだもって荷厄介なしろ物だといえましょう>

 世界に古代王朝がそのまま現代まで続いている国家は日本くらいです。天皇家がはたして万世一系かどうか、歴史学上は疑問があるようですが、それはさておき、日本人はこれまで様々な権力闘争はしてきましたが、天皇を頂点とする権力構造そのものは温存され、下からの体制変革ということがありませんでした。戦争に負けて、憲法を変えるときにも、明治憲法の規定の中で合法的に行われ、あらたな憲法も天皇の承認を得て発布されています。ここにも権力の連続性があります。

 これに対して、外国では王朝が交代したり、自らの国民が王制を倒すという市民革命がありました。中国にも「革命思想」があり、徳を失った権力は、これを力で打倒する権利を保障しています。そしてこういう人物が真の英雄とされました。市民革命を経験し、民主主義をみずから血を流して獲得した経験のある国民にとって、権力に従順であることが美徳ではなく、横暴な権力には反抗し、悪法には従わず、おのれの良心に従い行動することこそがもっともすぐれた徳なのです。

 国家権力をふくめあらゆる権力は、これを手放しで礼賛したりしてはならない。むしろ権力の横暴や独裁化を警戒しなければならないというのは世界の常識ですが、日本人はにはこうした意識が薄弱なのです。それどころか、人間性悪説を主張しながら、「国家性善説」を素朴に信仰している人がいます。

 残念ながら、日本人には市民革命の経験はなく、お上の決めたことに逆らうことはできない、という封建的な心情を多くの人々がいまだに脱し切れていません。戦後60年余が経ちましたが、日本人の精神年齢はマッカーサーが米議会で証言した「13歳」からまだほとんど成長していないのでしょうか。

 丸山さんの、「自由は置物のようにそこにあるのではなく、現実の行使によってだけ守られる」という言葉をかみしめてみたいと思います。この点で、憲法と教育基本法を踏みにじり、国民の人権までも侵害した都教委の「不当な支配」(東京地裁判決)に、職をかけて抵抗した401人の先生方は立派だ思います。

 判決文にもあるように、政治家は国民に「愛国心」を強要したり命令したりすべきではありません。国民が自然と国を愛せるような社会をつくりあげること、そのために国民の公僕となって汗を流すこと、これこれが政治家に課せられた本来の任務なのだと思います。

 そしてこのことは、教育者にもあてはまると思います。愛国心を生徒に強制するのではなく、彼らが自然にこの日本という国に愛情を持てるようにしたいものです。そして彼らが他国の人々までがお手本にしたくなるような自由と人権が行き届いたすばらしい国に日本をしたいと考え、そのために何が必要であるか自ら考えることのできる人間を育てたいものです。

 私は30年近い教師生活で一度も日の丸への起立や礼拝を拒否したり、君が代斉唱を妨害したことはありません。しかし、もし東京都のように教育委員会が憲法や教育基本法に違反するような不法行為を強制してきたら、私は憲法が宣言している「国民として当然の権利と義務」に従い、また公務員は憲法や教育基本法に忠実でなければならないという当然の義務と、公人としての良心に従って、これに抗議しなければならないと思っています。 

 しかし、正直に告白すると、今回の401人の先生のように自分の職をかけてまで権力の横暴と闘う勇気があるか、自信はありません。これは私や家族の将来の人生設計を狂わすことになるでしょう。家族や友人も「慎重に行動するように」と哀願、もしくは忠告することでしょう。

 そうした私的な事情を乗り越え、公的な義務や責任を自覚して生きるということは、とても大変なことです。しかしそうした人たちがいなければ、社会が進歩しないし、それどころか「ある朝目覚めてみると、もはや主権者でなくなっている」という悪夢が、現実になるかもしれないのです。


橋本裕 |MAILHomePage

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