橋本裕の日記
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昨日の金曜日、妻と二人で伊勢神宮にお参りした。妻は3回目だというが、私は初めてである。妻の案内で「外宮」「内宮」の順で見て回った。外宮は豊受大御神(とようけおおみかみ)を、内宮は天照坐皇大御神を祀る。いずれも広大な森の中にあり、すこぶる環境がよい。
とくに内宮は景観がよかった。大鳥居をくぐれば、宇治橋が五十鈴川をまたいでいる。橋の上から眺めた川辺の光景が美しい。橋を渡り、白砂利の敷き詰められた参道をしばらく行くと、鬱蒼とした森が広がる。その森の右手に五十鈴川の御手洗場へ下る道がある。
妻に誘われて、川の畔へと歩いた。大きな切石で造られた石段があり、川水が敷石の上を音を立てて流れている。妻が以前に来たときは、その清流に鯉がおよいでいたという。しかし、昨日は増水して魚の姿も見えなかった。しかし間近に見る五十鈴川の姿は格別だった。川の流れに悠久の時間を感じた。
吹く風の目にこそ見えね神々はこのあめつちに神づまります
これは私が敬愛する福井の歌人、人橘曙覧が詠んだ和歌である。彼は伊勢に憧れつづけた。そして、50歳の秋にようやく念願を果して伊勢に参詣し、彼はこの五十鈴川のほとりに立った。その感慨をこんな歌に託している。
五十鈴川先づすすぎてむ年まねくまゐでこざりし己が罪とか
「日本書紀」によると、垂仁天皇25年3月10日に、天皇は倭姫命に天照大神を祀らせた。倭姫命は天照大神が鎮座するべく所を探して諸国をまわった。倭姫命が伊勢国にたどり着いたとき、天照大神が「この神風の伊勢の国は常世之浪の重浪(しきなみ)よする国なり。傍国のうまし国なり。この国に居らむとおもう。」と託宣し、倭姫は五十鈴川の近くに祠(やしろ)を建てて、磯宮と呼ぶようになったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/a??a?¢c\?aRR
「倭姫命世記」という書は、姫命がこの川で裳裾の汚れを濯いだとの伝承をつたえている。このことから、五十鈴川は御裳濯川(みもすそがわ)とも称されるようになった。
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/ yamatouta/utamaku/isuzu_u.html
私にとって伊勢といえば、「万葉集」の大津皇子とその姉、大伯皇女(おおくのひめみこ)の物語である。686年9月9日に天武天皇が崩御すると、皇后(持統天皇)は姉の子で天武の長子であった大津皇子(24)を葬ろうとする。自らの子である草壁皇子を天皇にするには、文武に秀で、人々の覚えのめでたい大津皇子は邪魔者である。
大津皇子は、自分の不吉な将来を予感し、今生の別れを告げに、伊勢の斎宮であった姉のもとを訪れた。そして、姉と夜っぴて語り合った大津皇子は、夜が明け切らぬうちに出発した。そのとき、姉の大伯皇女が詠んだ歌が万葉集に残されている。
我が背子を大和へ遣ると小夜更けて 暁露(あかときつゆ)に我が立ち濡れし (巻2 105)
ふたり行けど行き過ぎかたき秋山を いかにか君がひとり越ゆらむ (巻2 106)
姉は弟が今生の別れを告げにきたことを知っていた。だから、弟の後ろ姿が見えなくなってからも、いつまでも夜露のなかに濡れて佇んでいた。姉の不吉な予感は現実のものとなった。10月3日に大津皇子は謀反人の汚名を着せられて自害させられた。
内宮の森の中を妻と歩きながら、この歌を思い出し、くちずさんでみた。おりしも梢で蝉が勢いよく鳴いていた。さすがは伊勢神宮の森に住む蝉たちである。「ほれぼれするようないい声だね」と妻と二人で感心した。神宮を出た後、「おかげ横町」のほうに足を向け、レストランで食事をしたあと、私の好物の「赤福」を買った。
伊勢にきて赤福うましありがたし 裕
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