橋本裕の日記
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2006年09月15日(金) 自己愛と攻撃性

 1932年、国際連盟はアインシュタインに、「人間にとって最も大事だと思われる問題をとりあげ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わしてください」と依頼した。アインシュタインが往復書簡による対話の相手として選んだのは、フロイトだった。アインシュタインはフロイトを相手に、「なぜ、戦争はなくならないのか?」と問うている。

 このアインシュタインの問題提議に対し、フロイトは心理学の専門家として、「人間から攻撃的な性質を取り除くことなど、できそうにもない」という悲観的な見解を示している。そして人間がそうした存在であればこそ、その攻撃性の発現を防止するために、私たちは出来うる限りの努力をすることが求められるわけだ。

 人間の持つ攻撃性を生まれながらのものと考えるのか、後天的に形成された二次的なものと考えるのか、意見が分かれるところだろう。フロイトは一次的なものと考えていたようだ。コフートは第二次大戦を経験し、ユダヤ人として悲惨なホロコーストを身近に体験した。しかし、彼はそれでも人間の攻撃性を一次的と見る見解について異論を挟んでいる。

<子供の怒りと破壊性は、目標をめざして奮闘している、あるいははけ口を探している一次的本能の表現として考えられるべきではない。心理現象としての人間の破壊性は本質において二次的である>(修復)

  人間が相手を攻撃するのは、自己の要求が阻害され、自己が痛めつけられたと感じたときだ。コフートによれば、自分の目標の障害になっているものに怒りを覚え、これを攻撃するのは何も異常なことではない。むしろそれは正常な反応である。こうした攻撃性はやがて自己が成熟することで、より客観的で健全な自己主張に発展する。

 しかし、共感が欠如した環境で健全な自己形成ができなかったとき、攻撃性は発育不全に陥り、いびつで過激なものにならざるを得ない。コフートは未熟な自己愛が傷つけられたときに感じる激しい怒りを「自己愛憤怒」と呼んだ。和田秀樹さんは「自己愛の構造」のなかで次のように書いている。

<自己愛の傷つきやすい人は、この自己愛憤怒が激しいものになる。いかなる方法でも復讐しないと気がすまないし、相手にも容赦がない。この容赦のなさ、収まらなさ、残忍さが、他の種類の攻撃性と自己憤怒の区別のポイントなのである。(略)

 そして、自己が崩壊することの産物であるから、自己がまとまるまでは収まらない。また自己がまとまっていないので、理性的な対応ができず、つい残忍なものとなる。

 これは、現在の「キレる」といわれている子どもたちのやり場のない、また残忍な怒りや、ストーカーと呼ばれる人たちの執拗な攻撃性を説明するのにぴったりの概念のように思えてならない。

 自己が脆弱な彼らは、教師のちょっとした「馬鹿にしたような」言動や、あるいは異性にふられるという自己愛の傷つきにたえられず、自己愛憤怒のために「キレて」しまったり、執拗な攻撃を止められないのだろう>

 人を自己愛憤怒から救い出すためには、彼を再び「自己を愛せる人間」に戻してやらなければならない。しかし、自己の破壊が進んでいるとき、これを修復するのは容易なことではない。ここから人間の攻撃性が一次的なものだという信念がうまれる。そしてこうした信念のもとで、抑圧的な解決法が模索され、カリスマ的な強いリーダーが待望される。しかし、和田さんはこれは最終的な解決にならないだろうという。

<カリスマやメシアの出現だけでは、ブランド品とおなじで、自己の病理の束の間の慰めにしかならないだろう。それよりは、共感的なリーダーのもとで、人々が自己を立て直し、冷静な判断と創造性や活動性の復活をめざすことのほうが、日本の自己喪失の治療計画としては、長期的に有効なもののはずだ>(自己愛の構造)

 人は共感され、愛されることで、自己を確立し、他者を愛することを学ぶ。私たちにできるのは、人間の自己破壊を防止すべく、できるかぎり愛情と共感にみちた家庭と社会を用意すること、そして協力して多くの健全な自己愛人間を育てることだ。これが地上から戦争をなくすもっとも合理的で望ましい道ではないだろうか。


橋本裕 |MAILHomePage

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