橋本裕の日記
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ハインツ・コフートは1913年にウイーンの裕福な製糸業者の子として生まれた。19歳でウイーン大学の医学部に入学し、1938年に学位を受けている。この年の6月4日、シグムント・フロイトはウイーンを脱出したが、コフートはウエスト・バーンホフ駅に彼を見送っている。コフートが帽子をあげて挨拶すると、フロイトも帽子をふってお返ししたという。
翌1939年3月にコフートもウイーンを逃げ出した。この年、ナチスがオーストリアを併合した。ユダヤ人のコフートにとって、生きにくい時代になっていた。彼はイギリス経由でアメリカにわたり、シカゴ大学で神経学を学んだ。優秀だったコフートは1944年には助教授になり、シカゴ大学の神経学のリーダーになった。
しかし、やがてコフートは神経学から精神医学のほうに転換する。神経学から精神医学へという転換はフロイトと同じである。このあとコフートはフロイトの娘で、すぐれた精神分析学者でもあったアンナ・フロイトの信頼を得て、1964年にはアメリカ精神分析学会の会長に選ばれている。
しかし、コフートはやがて正統派精神分析理論を受け継いでいたアンナを離れ、フロイトとも一線を画す独自な「自己心理学」を創造していく。これはフロイトが否定した「自己愛」を肯定し、相互依存と共感性に支えられた健全な自己愛の発育が人間を幸せにするという考え方である。
フロイトは「意識下に抑圧された性欲」がさまざまな精神障害を生みだしていると考えた。しかし、戦争が終わり、社会がゆたかになり、より開放的になってくると、この考え方は説得力をうしない、色あせてきた。セックスはもはやタブーではなく、「性の解放」が著しく進んだからだ。にもかかわらず、精神障害はなくならなかった。
コフートはフロイトの頃と現代では患者の質が違っていることに気付いた。性的な罪悪感で悩む人はむしろ少なくなり、多くの現代人は野心や理想を求め、現実とのギャップに悩み、挫折体験に傷ついている。コフートはこうした進歩的で現代的なタイプの人間を「悲劇人間」とよび、フロイトが対象にした保守的なタイプの人間を「罪責人間」と呼んだ。
<精神装置心理学という概念は、罪責人間の精神障害と葛藤を説明するのに適切である。自己の心理学は悲劇人間の心的障害と苦闘を説明するのに必要とされる>(コフート、「修復」)
性的罪悪感を持ち、自ら典型的な罪責人間であったフロイトは、彼にふさわしい古典的な心理学理論を築いた。これに対して、コフートはどちらかというと、新時代を代表する悲劇的人間だった。彼はアメリカ精神分析学会の会長になれたが、悲願の国際精神分析学会会長のポストを得られなかった。こうした自らの挫折と自己喪失を深く分析することで、現代社会に生きる我々に光りを与える独自の理論が築かれた。和田秀樹さんは「自己愛の構造」の中で、こう書いている。
<このように(コフートの論文のなかに出てくる)Z氏の分析を自己分析として読み直してみると、コフート自身の病理とその生い立ちの関係がうまく説明されるのは確かである。そして、コフートは表面的な成功の裏で送っていた空虚な精神生活を自己分析を通して脱却し、自らが信じ、自らが打ち立てる新しい精神分析理論をもって、周囲の権威にたいし、反旗をひるがえす精神的基盤を整えていったと考えてもよいのではないだろうか>
フロイトは晩年10年間以上を上顎癌と闘い続けた。いっさい愚痴をこぼさず、鎮痛剤さえ拒んで、自らの理論と実践によって培った堅固な自我を武器に、病と老いに果敢に立ち向かった。それは禁欲的でまさに英雄的といってよいような意志の強さを示す雄々しい姿である。
一方、コフートも1971年に白血病を発症し、彼の晩年10年間の独創的で円熟した研究は白血病との闘いのなかで築かれている。しかし、彼はフロイトのように寡黙で孤独な戦いはしなかった。1974年に行われたセミナーでコフートは多くの聴衆をまえにこう語っている。
「自分の病気を押してまで、なお他人への思いやりに没頭していることは、確かに賞賛すべきことだと言う人もいるでしょうが、その人の心的経済論に何かまずいことが起こっているあらわれ、と私は思うわけです。確かに、年をとるにつれてわれわれの力は狭まっていきますから、われわれは必然的に力を倹約して、自分の面倒を優先します」
ここにもコフートの建前よりも本音を重視し、より自己に忠実に、より自然に生きようとする姿があらわれている。人間は孤独では生きられないし、自律しても生きられない。人間はひとりでは弱い存在だという認識は、60歳を過ぎて不治の病を得たコフートにとって、骨身にしみる真実だったのだろう。1981年10月8日、コフートはシカゴで亡くなった。この年にはコフートが一時期「心の母」として敬愛していたアンナ・フロイトも世を去っている。
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