橋本裕の日記
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2006年09月13日(水) 人間性の回復

 人は感情や理性をもち、自己を他人の中に生きる一人として、客観的に自分を思い描くことができる。ところが、この自己体験が定かでなくなり、人間であるという感覚が失われることがある。コフートを引用しよう。

<人間がさらされる最も痛切な感情のうちあるものは、それはカフカの「変身」によって忘れがたく描写されており、また重い自己愛パーソナリティ障害の多くの人々の分析で観察可能なのだが、人間でないというあの感覚と関連している。パーソナリティにおけるこのような中心的歪みの自覚は、私が思うには、小さな子供のときの環境に人間的な人間がいなかったことから生じる>(治癒)

 人間は他人の中で自己に目覚める。他人に認めて貰うことで、ようやく安定した自己の像を手に入れ、自分という存在を自分で確認する。子供は母親に求めてもらい、父親や周囲の親族に認めてもらうなかで、彼らの中で支えられて生きている自分を発見するのだ。

 しかし、こうした受容的で共感的な環境がないと、子供は不安になり、自分をどこにむすびつけてよいのか分からなくなる。こうした「存在不安」のなかにおかれると、人間は安定した自己像を持つことができないわけだ。

 自分が自分に対して曖昧になるのと同時に、世界も曖昧になる。自分が人間とかけ離れた存在になるということは、世界が人間のすむ世界ではなくなるということだ。

 子ども時代から競争的な環境におかれ、共感的な存在にささえられずに過ごした人間は、彼自身、共感的な能力を発展させることもなく、まとまりのある自己という意識からも疎外される。そして、さまざまなパーソナリティ障害を発症するわけだ。

 彼が自己を絶対化するのは、実際は彼が無能力だからである。また、彼が他者を攻撃するのは、彼が他者からの攻撃に脅えているからである。他者の彼に対する敵意は、実のところ彼の他者に対する敵意の鏡像である。彼は世界の中に彼自身の敵意を見ている。そしてその敵意に脅え、さらに攻撃をエスカレートさせる。

 もちろんこうした戦いはいつまでも続くわけではない。自分自身とのこの不毛な戦いに疲れて、ついに彼は倒れるだろう。そのとき、彼はもはや自分は人間でないという感覚に襲われる。こうして彼は他者と同時に、自分自身をも見捨てるわけだ。

 現代人の多くは、こうした自己喪失というカフカ的状況の中におかれている。それは彼の生い立ちや、彼をとりまく社会の状況がそうさせているわけだ。それではどうしたらこの自己喪失人間を、自己建設へと向かわせることができるのだろう。和田さんは「自己愛の構造」にこう書いている。

<コフートの治療観では、治療者や親はつねに共感的でないといけないし、それを通じて患者はまとまりのある自己と人に上手に依存する力を得るということなのだろう。そしてその逆の場合は、自己がいつもバラバラになりかけているのに、人に上手に頼れないという「悲劇」が生まれるのである>

 コフートは人間には本来的に自己創出能力があると考えた。したがって、患者をそうした人間的な環境のなかにおけばよいのだ。具体的には共感能力の高い人間を彼の傍らに配置し、彼が人生を最初からやり直すのを温かくサポートするのである。

 もちろんこの試みはむつかしい。そしてこれは精神科医だけの課題とはいえない。現代において、すべての親や教師が、こうした共感的なセラピー能力を養うことがもとめられている。それは社会がそれだけ競争的になり、非共感的な環境になってきているからだ。

 人間は風にそよぐ弱い葦である。しかし賢い人間は、自分が風にそよぐかよわい存在であることを知っている。そしてこのかよわい存在が生きていくためには、おたがいが依存しあい支え合う必要があることも。

 私たちは一人一人はかよわいが、心を通わせ、協力することで強くなれる。そしてそうした共同作業を通して、共感的に他人と関わり合う中で、健全な自己が育っていく。そして、健全な自己が私たちに、さわやかな風のような幸福の恵みをもたらす。


橋本裕 |MAILHomePage

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