橋本裕の日記
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フロイトは自己愛を否定し、対象愛にいたるのが、すなわち心の健全な成長だとみた。またフロイトにとって幼児的な依存は悪でり、自立することが大切だった。これについても、コフートはまったく違った見解を出している。1965年に出版された「自己愛の形態と変形」という論文で、コフートは次のように書いている。
<私が強調したかったことは、自己愛にはさまざまの形態があること、それらは対象愛の前駆としてだけではなく、独立した心理的な布置としても考察されなければならないこと、そしてその発達と機能は別個の評価を受けるに値すること、これらのことである>
<健康な自己愛への変形が、ごくわずかでも達成されてくる。自己愛を対象愛に変えなさい、という要求に対して、患者が不安定に無理して迎合するよりも、より本物の、より妥当性をもった、治療の結果として、評価されなければならない>
人間はだれしも利己的な生き物である。この利己的な生き物に自己愛を捨て、他人のために生きなさいといっても無理がある。人間は自己愛を捨てることなど、そもそも不可能なのではないか。たしかにキリストは「隣人を愛せよ」というが、その前に、「自分を愛するように」と言った。自己愛を否定してはいない。
フロイトのいうように、自己愛から対象愛へという流れを肯定するにしても、それは自己愛を捨てることではない。自己を大切にしながら、同時に他者にも関心をもち、これを尊重する心性を育てていく、ほんとうに大切なのはこうした自己から他者へという道筋ではないのか。私もこうしたコフートの考えに賛成である。
コフートはすべての対象愛は自己にもとづくもので、純然とした対象愛なぞ存在しないと主張している。対象愛はすべて自己愛に基づく対象愛であり、こうした自己に関係した対象を、コフートは「自己対象」と呼んでいる。コフートにとっては対象愛もまた自己愛体験とわかちがたく結びついている。
大切なのは自己中心的な自己愛を、健全でよりゆたかな成熟した自己愛に成長させることだ。コフートが「ざまざまな自己愛のかたちがある」というのはこのことだろう。自己愛が悪いのではない。それを豊かな対象愛にむすびついたものに成熟させないことがいけないのだ。和田さんの言葉を「自己愛の構造」から引いてみよう。
<コフートにとって、自己愛パーソナリティも神経症もボーダーラインも、あるいは精神病までもが自己の病理とみなされることになる。人に情けをかけず、いつもナルシシスティックにふるまう傲慢な自己愛パーソナリティ障害の人も、それは自我愛リピドーが強すぎるのではなく、自己の成熟が小さすぎるからなのである。弱々しく、傷ついた自己を抱えて生きる彼らには、他人のことを考える余裕がないのだ>
<コフートにいわせると、この弱々しい自己が立ち直るかどうかは患者の病理がどの程度であるかという問題だけではない。治療者の共感能力次第で、その自己を立て直してやることができるものが自己愛パーソナリティ障害なのであって、それができなければボーダーラインなのだから、患者が自己愛パーソナリティ障害なのか、ボーダーライン障害なのかは治療者次第、あるいは治療者と患者の相性次第である。ある意味では、かれらにどうすれば共感し、治療できるかということを、後世の自己心理学者にたいする宿題として残して、コフートはこの世を去ったともいえるのだ>
コフートは精神分析学とは共感の科学だという。彼がたどりついた結論は、人間は他の存在と相互依存してしか生きられない弱い存在であり、つまり自立などできないということだ。そしてこのことを知り、謙虚に受け入れることができる自己こそが、ほんとうに強く健全な自己だということになる。
健全な自己は、自己が弱い存在であることを知り、相互依存と共生を尊重する。そうした共感的な生き方の中で、多くの存在を友とし、自己を愛するがゆえに、他者をも尊重し、愛するのである。そして心の底から「生きていてよかった」と実感されるほんとうの幸福を実現するわけだ。
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