橋本裕の日記
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| 2006年09月11日(月) |
共感によるトラウマの克服 |
幼児期に悪質なネグレクトや性的虐待などを受けると、心に強い傷を受ける。しかもこの辛い体験は心の底にしまいこまれる。こうした心理的外傷体験をトラウマとよび、これがパーソナリティ障害の大きな原因とされてきた。
フロイトは意識下に抑圧されたこうした記憶を呼びもどし、患者がこれと対峙することが必要だと考えた。意識化させ、真実をあきらかにすれば、人はそれと対決できる。そしてこれを克服する過程で心的解放感(カタルシス)を味わい、トラウマから自由になる。
こうしたフロイトの方法はその後の精神分析の専門家たちにうけつがれてきた。しかし和田秀樹さんの「自己愛の構造」によると、現在、記憶をよみがえらせる治療法の効果が疑問視されているのだという。
そもそもトラウマ体験は正確に再現されるのか。ピューリツア賞を受賞した社会心理学者リチャード・オフシーは、1994年に書いた「こころのなかにおばけを作り出すこと」という本で、精神分析によって偽りののトラウマ記憶がいかに生み出されるかを明らかにした。この本は一大センセーションまきおこし、ベストセラーになった。
実際、精神療法家が子供の側の偽りのトラウマ記憶をよみがえらせることで、親子関係が断絶したり、子供が親に暴力を振るうようになった例が多くあり、アメリカで裁判沙汰になっているのだという。
そこでワシントン大学のエリザベート・ロフタフ教授はランダムに選んだ30人の患者について、この治療法の効果を検証した。そうすると、治療前に自殺を試みたのは3人だったのに、記憶が回復後、20人者患者が自殺を企図していた。
そして治療前、入院患者は2人だったのに、治療後は11人が入院した。しかも、ほとんどすべてのケースで治療後に結婚が破綻していた。トラウマの記憶をよみがえらせても患者はよくならないどころか、むしろ悪化していた。
聖書に「真理は汝を自由にする」とあるが、フロイトも真実を知らしめることこそが大切だと考えた。とにかく外傷体験を意識化しないことには、その体験を克服することはできない。トラウマ記憶をよみがえらせて、患者を勇気づけ、孤独感をやわらげながら、クリアな意識で問題に向かわせれば、やがて患者は自らの力でこの問題を解決するだろう。
この理論はたいへん合理的で美しくみえる。しかし、現実の患者に施してみると、思ったほど効果があがっていないどころか、むしろネガティブな結果をもたらし、患者とその家族にさらなる深刻な外傷体験を与えていたわけだ。
イギリスのレスター大学名誉教授ブランドも、多くの治療例の文献をあたり、性的虐待治療グループを訪問したり、親たちに面接したりしてこの問題を検証したが、ほとんどの場合、治療者は自分たちの信念で治療の効果について書いているにすぎず、記憶快復がよい結果をもたらすと信じるに値する結果をだしているものはなかったという。和田さんはこうした例をあげて、次のように書いている。
<心理学者や精神医学者の科学的な調査でも、記憶をよみがえらせる治療法は、患者の症状を悪くするし、偽りの記憶が作り出されてしまうことが確認されたのである>
それではこうしたトラウマをもつ患者については、どのような治療がふさわしいのだろうか。これについてコフートは、治療者は患者の無意識の世界に無理な憶測を加えず、患者に共感的に心を寄せることが大切だとしている。そして、現在の自己がより親密に周囲と関係をとりむすべるよう助力することで、自己をより現実に適応可能な存在へともたらすことが大切だという
コフートの自己心理学の後継者であるストロフは「外傷体験そのものは人間を心の病にしない。問題はそこに共感的な環境があるかどうかである」と書いている。
少女がレイプをうけても、そこに家族のあたたかい愛があり、周囲に共感的な環境があれば、深刻なトラウマとはならない。そして少女の傷はやがて癒されるだろう。コフートはこうした共感的な手法が、精神分析の臨床において大切だと力説している。
「あなたが患者を治しているのではありません。患者が自分で治っていくのです」(コフート)
共感こそがトラウマを救うのであって、治療によって再現された真実の力が、患者を無意識の闇から救うというのは、多くの場合は分析医の思い上がりでしかないというわけだ。コフートの共感を媒体にした患者本位の臨床法が、増大しつつあるトラウマ体験患者の治療に、大いに貢献するのではないかと期待されている。
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