橋本裕の日記
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56年間も生きていると、数知れぬ失敗がある。中には取り返しのつかない失敗もないではない。大小さまざまな失敗に彩られたわが人生だが、こうした失敗を通して、私の人生が形作られてきたのだと思う。こうした感懐を抱いたのは、10年ほど前に自伝を書いたときだ。私の自伝はこうした失敗のエピソードで満ちている。
他人の自伝を読んでいて面白いと思うのは、その失敗談を読むときである。反対に、成功談を読んでも面白くはない。成功談ばかりの自伝は何か嘘臭さを感じさせる。そして何だか「自分はこんなに優秀な人間です」と自分をひけらかしているようで、鼻持ちならない。
もっとも、私の自伝も今読み返してみれば、鼻持ちならないところが多々ある。それは結果として、自分の人生が成功したように書いているからだ。「失敗は成功のもと」と言った安易な、予定調和的なところがある。たとえば、大学院の受験でラブホテルに泊まり、寝不足のもうろうとした頭で数学の問題をとく羽目になった。しかし、それでも合格した。これは一種のホラ話になっている。いい気なものである。読む人によっては不快だろう。
そもそも私は自分の人生で最大の失敗だと考えていることを、自伝にも日記にも書いていない。それは私の恋愛問題なのだが、こればかりはどうしても書けない。それはその失敗があまりに大きすぎるからだ。そしてわたしの過ちの故に、現にまだ苦しんでいる人がいるからである。
いろいろ考えてみると、私は多くの人を踏みつけて生きてきた。そして踏みつけて生きてきたという自覚さえ乏しかった。私のエゴイズムによって傷を負った人は無数にいる。そして現在もなお、私は多くの人に傷を与え続けているのかも知れない。このことを考えると、生きるということが何だかとても重苦しくなる。
今日の日記にこんなことを書いたのは、過去の書類を整理していて、私が人に与えた手紙の写しが出てきたからだ。20数年前のその手紙は、あらためて私に「とりかえしのつかない失敗」があったことを教えてくれた。しかし、この手紙をここに引用することはできない。下手に引用すると、この手紙自身も、自分が如何に女にもてたかという一種のホラ話になりかねないからだ。
なぜなら、その手紙自身がそうした調子で書かれているからだ。いい気なものである。しかもその手紙は、現在の私の姿をも容赦なく映している。「文は人なり」というが、これは真実であるだけに恐ろしい。
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