橋本裕の日記
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2006年08月23日(水) お父さん、ごくろうさんでした。

 昨日は青春18切符を使って、福井に帰省した。JR木曽川駅7:44発の電車に乗ると、途中、大垣、米原、敦賀で乗り換えて、10:40分に福井駅に着いた。勝木書店で本を立ち読みしたあと、11時半ごろヨーロッパ軒に行った。ここでソースカツ丼を食べるのが楽しみである。

 ところが火曜日が定休日だという。しかたがないので、その近くの蕎麦屋に入り、これも福井名物の「おろしそば」を食べたが、やはりヨーロッパ軒のカツ丼が食べたかった。何だか物足らない。火曜日が定休日だということを知っていたら、帰省を一日延ばしていたことだろう。

 腹ごしらえを終わって、実家に行った。C型肝炎でインターフェロンの治療を受けている母は、副作用で食欲がなく、肌も荒れていた。しかし、6月に入院していた頃とくらべるとだいぶん元気になっていた。弟夫婦は共稼ぎで、4人の男の子を母が面倒をみて育てた。これは大変なことである。

 病気に加えて、子育てのストレスがかなり溜まっている。2時間ほど母はしゃべり続けた。私には母の愚痴を聞くくらいしかできない。母は友人がたくさんいるが、やはり家庭内の立ち入った話はしずらいという。「あなただから話せるのよ」と、日頃の鬱憤をぶつけてくる。母の話は愚痴のようでいて、半分は自慢話だ。聞いていておかしくなり思わず笑うと、母も大声で笑った。

「いろいろあるけど、家族が健康でいられるのが一番の幸せだね。あなたも、どこもわるくないの」
「ああ、健康そのものだよ」
「私も体がずいぶん楽になった。それに、お父さんの恩給がたくさんあるので助かっているのよ」

 父は軍人をしていたので、その恩給がある。さらに、警察官を15年務めた。さらに、自動車学校の教員を15年間と保険の検査士を15年間。その各々に年金がついているのだという。あいにく父はこの恩給をほとんど貰わずに死んでしまった。勿体ない話だが、それでも母が半分もらえる。

 私は母の話を聞きながら、兵隊で苦労したあげく、45年間も働き、そして体がぼろぼろになって死んでいった父のことを思った。まさに苦労の連続の一生である。「おとうさん、ごくろうさんでした」と、心の中で手を合わせた。

 そういえば、父の好物が「おろしそば」だった。蕎麦を食べるときの、嬉しそうな父の顔をふと思い出した。


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