橋本裕の日記
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2006年07月22日(土) 小金持ちの日本人

 去年、セブからの帰り、マニラ空港で乗り継ぎを待っていると、十数人の日本人男性の観光客の団体と一緒になった。お土産袋を抱えた中年太りの、陽気で賑やかな一団である。私は思いがけず異国で耳にした生まれ故郷の言葉(福井弁)がなつかしくて、こちらから声を掛けた。

「みなさん、フイリピンは楽しかったですか?」
「それはもう、連夜、友好親善につとめましたよ」
「夜の友好親善ですか・・・」
 もともと、そうした目的の旅のようである。心がひんやりした。

 フイリピンへ行ったと聞くと、私の知人の中にも、「橋本君までそんな風だとは知らなかった」と言う人がいる。これは私がセブに行ったということを、間に人をはさんで聞いた結果だろう。その知人にじかに合ったとき、「英語の勉強のためだ」と強弁しなければならないのが悲しかった。

 フイリピンの人たちは日本からの集団売春客をどういう気持で迎えているのだろう。フイリピンには深刻な南北問題が存在する。とりあえず、お金を落としてくれる小金持ちの日本人はありがたい存在なのだろうか。

 韓国であれ中国であれ、ベトナムやフィリピンであれ、そこにはかって軍国日本の勢力が及んでいたところだ。多くの人々が日本軍によって生活を蹂躙され、レイプされ、殺戮された歴史が刻まれている。毎年、多くの日本人が観光やビジネスでアジア各地を訪れるが、こうした歴史をどれほど重く受け止めているのだろう。

 メーリング・リスト「戦争を語り継ごう」に投稿してみえる方から、「セブなど、フィリピン群島には2004年の正月に訪問しました。簡単に、サイトにまとめてあります。参考にしてください」と、ありがたいお言葉をいただいた。その方のHPから引用させていただく。

<セブ島は、現在リゾートの島として、7000あるフィリピンの島の中ではもっとも日本人に染みのある島である。マゼランの上陸でも有名なこの『セブ島』が、レイテ島と同じく『日本兵の墓場』になっていたとは、この研究を始めるまで私はまったく知らなかった>

<1980年代を中心に東南アジアへの日本の経済進出は目覚しいが、反日感情の強かったフィリピンは例外だった。しかもフィリピンは、反政府のゲリラ活動も盛んで多くの日本企業が進出を見合わせてきた。このセブ島に比較的日本企業が多いのは、島が細長くゲリラが拠点とする山岳地域が少ないことが理由だという>

<昭和20年3月26日、セブ市南方約十キロのタリサイにアメリカ軍一個師団が上陸し、ただちに北上を開始した。たちまちセブ全市、セブ島全地域に戦火が広まっていく>

<『男子は情報を得たのち全部殺す事、逃げる女子も殺す事』などの日本軍は方針を持ち、女子供までも殺戮に巻き込まれていった。更にアメリカの無差別爆撃も、市民を殺傷した>

<『ハポン パタイ』とは、『日本 死ね』という意味である。多くの日本軍兵士が、フィリピン住民にこの言葉を浴びせられ手足を切り刻まれて殺された。フィリピン住民の憎しみは激しく、フィリピン人ゲリラに日本軍は襲われていった>

<現地フィリピン人との関係を決定的に悪化させたのは、日本人のフィリピン人への『平手打ち』があげられている。フィリピン人にとって、日本人の『平手打ち』は大変な屈辱であった。日本は、フィリピンの文化や習慣を無視し、いたずらに反感を買ったのである。

 西洋文化とキリスト教文化のフィリピンに、日本軍は時代遅れの『天皇崇拝』を押し付け、生活文化習慣まで変えることを強要し、その結果反発を招き、その反発をアメリカに利用されていったのである。

 42年5月、日本軍はケソン政権の緊急紙幣流通禁止令を出し国内を大混乱させていく。そして悪名高い軍票を乱発し、フィリピンの貨幣経済を破壊した。3年間に物価が100倍になり、円・ドル・金と交換できない軍票は『おもちゃ』と呼ばれた。更に、日本軍は住民の食料を巻き上げた。フィリピンの大戦中犠牲者100万人の大半は、餓死といわれている>

  http://www11.ocn.ne.jp/~mino0722/pillipin0.html

 日本軍の侵攻によって、フイリピンの人々は平和を奪われ、生活が困窮し、全人口17000万のうち100万人以上もの人が戦禍で命を失った。こういう過去を正面から受け止め、謙虚な気持でセブを訪れたいものだ。そして英語の学習のかたわら、フイリピンの人々と一人でも多く心を通わせたい。


橋本裕 |MAILHomePage

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