橋本裕の日記
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教員は恵まれている。なぜなら、「教えながら学ぶ」ことができるからだ。まさに「学ぶために働く」という理想の環境である。今日の日記でこのことを書こうと思っていたら、tenseiさんがすでに昨日の日記に書いていた。私が毎朝愛読している「TENSEI塵語」から、その部分をそっくり引用させて貰おう。
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きょうの橋本日記のテーマは「学ぶために働く」。その趣旨はそちらを読んでいただくとして、私が四半世紀ほど前に就職についてさほど真剣に考えてなかったところから一歩抜け出して、いよいよ決めなければならなくなったとき、高校の教員を選んだ理由はいくつかあるけれど、もっとも大きな理由は、もっとも勉強を続けやすい環境、ということだった。
当時やろうとしていた勉強ができたというわけではないけれど、確かにいろいろな勉強をさせてもらえたし、それは今も継続中である。特に「現代文」なんて教科をやっていると、さまざまな分野について、教材からだけではなくて、予備知識として知らざるをえなくなる。「わかりやすい授業」ができるかどうかが我々の死活問題だから、生来怠け者の私でもいろいろと勉強せざるをえなくなるのだ。
古文や漢文も、若かったころはその分野の優等生だったと言っても、フィーリングで対処していただけに過ぎなかったが、教員になってから本当にいろいろなことを知ったし考えた。また、思いがけず吹奏楽の仕事が入ることによって、音楽についてそれまで考えもしなかったような勉強もできた。音楽活動は大学時代に諦めたはずなのに、不思議なことである。
そもそも、「教える」という行為こそ、もっとも勉強になるのだ。「教える(又は書く)」という行為の中で、我々は自分の無知を痛感しつつ、より確実な知識を求めたり、説明したり導いたりする工夫に頭を悩ませる。これはとても貴重な体験の積み重ねである。
私はしばしばこういう感想を抱いた。生徒たちは授業料を払いながらろくろく勉強しない、我々は給料をもらいながら、うんと勉強させてもらっている。。。実際これは理不尽なことながら、とてもありがたいことなのだ。
我々は初心を忘れがちである。最初の思いからすると、この職業はちゃんとそれに適した職業なのだ。そう文句たらたらいうべきではない。
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/18221/diary.html
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たしかに私も初心を忘れて、不満をかこちがちだった。しかし考えてみると、教員になったおかげで、ずいぶんいろいろなことを学ばせて貰った。しかも、お給料までいただいて・・・。まったくもって、ありがたいことである。
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