橋本裕の日記
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2006年06月23日(金) 伊丹万作の不安

「愛国心」などというものが登場して、だんだんと窮屈な世の中になってきた。しかもグローバルな規制緩和や市場主義、小さな政府を持論にしている小泉内閣がいうのだから、なんだか可笑しい。

 しかし、これは自己矛盾でも何でもない。昨日引用した坂口安吾も言っているように、天皇や国家というものを崇める人間は、その権威を利用して自分の我を通したいのだ。マッカーサーさえ、天皇を利用して日本を「民主化」しようとした。これなど、とんでもない矛盾である。

 さて、板垣恭介さんの「明仁さん美智子さん、皇族やめませんか」(大月書店)には、伊丹万作さんの「戦争責任者の問題」というたいへんすばらしい文章も載っている。少し長くなるが引用しよう。

<多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。おれがだましたといった人間はまだ一人もいない。民間のものは軍や官にだまされたと思っているが、軍や官の中にはいってみれば、みな上の方をさして、上からだまされたというのだろう。

 上の方に行けば、さらにもっと上のほうからだまされたというにきまっている。すると、最後にはたった一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだまされるわけのものではない。

 このことは、戦争中の末端行政の現れ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては町会、隣組、警防団、婦人会といったような民間組織がいかに熱心かつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

 だまされたものの罪は、ただだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも雑作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己のいっさいをゆだねるようになってしまった国民全体の文化的無気力、無自覚、無責任などが悪の本体なのである。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、いっさいの責任から解放された気でいる多くの人人の安易きわまる態度をみるとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるをえない。

「だまされていた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。(略)

 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかったならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないだろう>(「映画春秋」1946年8月号)

 伊丹万作さんはこの文章を書いて数ヶ月後に亡くなっている。寝たきりの苦しい病床で、日本国民への遺言のつもりで書いたのではないだろうか。ちなみに、伊丹さんは戦争協力の映画を一本も作らなかった。しかし、それは単に体調が悪かっただけで、「自分が戦争協力映画を作らなかったのは偶然にすぎない」と謙虚に述べている。

 坂口安吾の「堕落論」「続堕落論」も、伊丹万作の「戦争責任者の問題」も、全文を「青空文庫」で読むことができる。是非、みなさん一読してみて下さい。

「続堕落論」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42619_21409.html
「戦争責任者の問題」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html


橋本裕 |MAILHomePage

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