橋本裕の日記
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2006年06月03日(土) 数学と偽善

「赤と黒」や「パルムの僧院」で有名なスタンダールは、50歳のときに、「過去の瞬間に自分はどのようなものであったかを知ろうとして、自分の楽しみのために」、自伝を書き始めた。彼は少年時代は、数学が好きだったと書いている。

 彼は偽善が大嫌いだった。とくに宗教を憎悪していた。たとえば彼の家庭教師の僧侶は、「教会に公認されているから」という理由でプトレマイオスの天動説を彼に押しつけた。真理よりも権威に忠実な大人たちが彼には我慢がならなかった。宗教や世俗の生活が偽りに満ちていた分、彼の心は数学の純粋さに傾いた。

<私が数学に熱中したのは、偽善に対する憎悪が主原因だった。私の考えでは、数学において偽善は不可能であると思われたからである>

<私を数学者だと定義するのはずいぶんうぬぼれがあるだろう。私は微分も積分もまったく知らない。しかし、ある時期には方程式をつくる術のことを考え、愉しんで日を過ごしたことがある>

 オイラーの「代数学入門」などを読み、心が動いた彼は、数学者グロのところに講義を聴きに行った。グロは彼の偽りに満ちた家庭教師とも、これまで彼が学校で出合った愚劣な教師とも、まるで違っていた。

<グロは勘のいい人物で、その説明は私にとっては、天がひらける思いがした。ついに私はものの道理がわかり、天から降ってきた薬局の処方箋のような公式で方程式を解くのではなくなった。私は面白い小説を読むのと同様の生き生きとした喜びを感じた>

<たとえば、彼は私たちに、つぎつぎと三次方程式の多様な解き方をしめした。カルダーノが最初どういうやりかたで試みたか、そのつぎにそれがどう進歩したか、そして現在の方法はどうであるか、というふうに>

 スタンダールは学校の数学の試験でも一等賞を獲得した。そして1799年11月に、エリート技術者や科学者を養成する名門校のエコール・ポリテクニクを受験するためにパリに行く。しかし、彼は結局、この学校を受験しなかった。彼はパリにも数学にも失望したのだった。

 数学について、彼はある疑問に捕らえられていた。それは「なぜ、マイナスにマイナスを掛けると、プラスになるか」という疑問だった。プラスを「財産」、マイナスを「負債」とみなせば、加算や減算は説明できる。しかし、「負債×負債=財産」を説明することはできない。

 スタンダールは、負数のかけ算について、合理的な説明を教師たちに求めた。しかし、彼らは説明できなかった。「習慣だよ」「規則だ」という呪文のような言葉を繰り返すだけだった。そして答えはどこにも書いていなかった。

<私が数学に熱中したのは、偽善に対する憎悪が主な理由だったと思われる。私の考えでは、偽善は数学においては不可能であった。そして少年の単純さから、数学が応用されるすべての科学は、みな同様であると思っていた。ところが誰も私に、どうして負に負を乗じて正になるか説明してくれないのだから、私はどうしてよいかわからないではないか>

 こうしてスタンダールは数学もまた偽善の上に築かれていることに気付いた。彼は受験をあきらめて、軍隊に入り、やがて地方の役人生活の傍ら、小説を書くようになる。彼の小説の文体の特徴は正確で透明なことだが、数学で満たされなかった明晰さを、彼は自分の小説世界に求めたのかも知れない。

 私も高校生の頃、同じ様な算術上の疑問に捉えられ、悩んだことがあった。そのとき、たまたま書店で手にしたのがラッセルの「数理哲学序説」(岩波文庫)だった。そこに、なぜ、「1+2=3」といった算数の演算は可能かということが論理的に書かれてあった。

 さらにラッセルの自伝を読むと、そこに興味深いことが書いてあった。彼はケンブリッジで数学を専攻し、優秀な生徒だったが、あるとき、「数学の基礎がまったく不確かなこと」に気付いて、その偽善にたえられなくなったと書いている。彼は大学を卒業すると同時に、数学を断念し、すべての数学書を処分したそうだ。

 しかし、数年後、彼は自分がその基礎を築いてやろうと考え始めた。こうして彼は数学基礎論という分野で大きな仕事をし、押しも押されぬ大数学者になった。スタンダールは数学者になりそこねたが、そのかわりに世界的な文豪になり、歴史に名前を刻むことになった。これも運命の悪戯かもしれない。

(参考文献)
 「数学を愛した作家たち」 片野善一郎 新潮新書


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