橋本裕の日記
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私たちの人生は偶然に支配されている。まず、どういう時代に、どういう境遇に生まれ落ちるか、これがまったくの偶然である。裕福な資産家の子供に生まれるか、その日暮らしの貧しい労働者の家庭に生まれるか、私たちの人生はその出発からして、偶然に支配されているわけだ。
さらに、生まれ落ちたあとも、いろいろな偶発的な事件が私たちを待ちかまえている。私たちの前には無数の選択肢がひろがり、そのどれを選ぶかもまた、多くの場合、偶然の産物である。入学試験に合格するかしないかも、多くの場合偶然だが、これによって私たちの進路がまためまぐるしく変わったりする。
人生は努力をしたからと言って、成功するとは限らない。正しいのは努力をした人の一部は成功するということだ。しかし成功した人の多くは、それを自分の努力のせいにする。そして「君たちは怠けていたから失敗したのだ」と調子のよいことを言う。
もちろんこれは錯覚で、彼はただ「運が良かった」だけである。同じように努力した人はたくさんいる。しかし、彼らの努力はほとんど実を結ばなかった。一部の人たちは、ただ運に恵まれていたという、ただそれだけである。
そして、運に恵まれた人は、努力しなくても成功する。彼が高学歴なのは、多くの場合、彼の父親が高学歴だからであり、彼が資産家なのは多くの場合、彼の父親が資産家だからである。そして、もう一度くりかえすが、これは努力の結果ではなく、運命という名前をした、ある種の偶然の産物である。
しかし、人生をこのように偶然の産物と考える思想を、私たちはあまり歓迎しない。なぜなら、それはあまり教育的な思想だと思われないからだ。とくに運に恵まれて、この世でよい待遇を得ている人は、これを自らの地位や特権を脅かす危険思想だと感じるだろう。
また多くの人々も、学校でこれとはまったく違う思想を、つまり人生は努力の結果であり、偶然ではなく、必然の結果だという思想を吹き込まれて洗脳されている。教師もこうした思想の影響下にあり、この固定観念から自由になれない。
だだ、自分の人生を虚心に振り返り、自分のまわりの人々の人生や、われわれの現実をありのままに見つめたとき、この思想がたんなる幻想であることがわかる。私たちは明日にもガンになり、死の宣告をうけるかもしれない。もしくは、事故にまきこまれたり、会社が倒産するかも知れない。私たちはこうした不可抗力に満ちた、不確実性の世界を生きている。
もっともこのことについて、何も不安になったり、悲観的になることはない。人生は一寸先は闇かも知れないが、また、その反対に光明かも知れないからだ。偶然は不幸を運んでくるだけではなく、幸運も運んでくる。
兼好法師は徒然草に「世はさだめなきこそ、いみじけれ」と言った。ガリレオも同じ様な人生観を「天文対話」のなかで語っている。不確実性を恐れるのではなく、この偶然性に満ちた人生を祝福し、そこで遭遇するさまざまな出会いを大いに愉しみたいものだ。
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