橋本裕の日記
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2006年05月31日(水) |
偶然に支配される人生 |
人生は「必然」と「偶然」という二本の糸によって紡がれた織物のようなものに例えられる。仏教にも「因縁果の法則」がある。内的な要素である「因」と、外的な要素である「縁」が働きあって「結果」が生み出されるわけだ。
もちろん仏教でいう「縁」はただちに「偶然」というわけではない。むしろ一見偶然と思われる出会いも、そこにはさまざまな「因縁」が働き合って生まれたものだ。偶然の中にも必然の要素が存在しないわけではない。
もうすこし言えば、一見「不運」と思われる出来事も、もっと高い視点からみれば、それは本人に課せられた「試練」であり、よりよき人生への入り口である場合がある。こう考えれば、人は逆境の中でも前向きに生きていくことができる。
こうした宗教的な人生の捉え方は、それはそれで大切なのだろう。また偶然の中に必然が潜んでいるというのも本当のことである。これは仏教のみならず、科学の因果の思想であり、むしろこの点で、仏教は科学的合理を先取りしているわけだ。
たしかに全知全能の神の視点にたてば、人生で生じることはすべて必然ということになる。しかし、人間は全能ではない。いかに科学が高度に発達しても、人間は全知全能になることはない。むしろ優れた科学者ほど、私たちがいかに無知であり、偶然に支配されているかを知り、謙虚になるのではないだろうか。
私も56年間生きてきて、自分の人生がいかに「偶然」に支配されていたか、このごろよく実感するようになった。そもそも私が20世紀の日本に生まれたというのが偶然である。そしてたまたまある夫婦の子として、何十億人のなかの一人となった。
私がこのように生まれついたのは、生物学的な必然かも知れないが、私自身の立場から見れば、まったくの偶然である。私はエチオピアの貧しい農民の子に生まれていたかも知れないし、あるいはもっと想像を逞しくすれば、未知の銀河系の未知の惑星の目玉が3個ある生命体であったかも知れないわけだ。
こうした話をすると、仏教者の多くは「前世」を持ち出してきて、「君が現在の境遇にあるのは、前世での行いの結果だ」という。そして「来世で幸福になりたかったら、現世で善行にはげみなさい」と「来世」を持ち出してくる。
私は「前世」も「来世」も信じないので、現在の境遇が前世の結果だとは思わない。また来世の幸せのために、現世でとくに善行に励もうとはおもわない。私が善人になりたいと願うのは、もう少し違った理由からである。
それはともかくとして、人生は多くの偶然の産物だと考えれば、これはこれで毎日が意外性に満ちていて、愉快で楽しいのではないか。人生は人間の意志や努力ではどうにもならないものがある。そう考えるだけでも、何だか心が軽くなり、解放された気分にならないだろうか。
近頃、能力主義だとか、成果主義だとか、やかましくいわれる。しかし、こうしたことを声高に主張している人は、自分の人生のほとんど99.99パーセントが「偶然」の産物であることを知らない。この人生の厳かな真実を知らず、すべては自分の努力の結果だと思っているのだろう。
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