橋本裕の日記
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アルツハイマーになると、いずれ身近な人がだれかわからなくなる。最後は自分自身さえ誰かわからなくなるわけだが、その「わからない」という意識もなくなるので、本人は少しも苦痛ではない。
やがて、「我」そのものが消滅し、あらゆる欲望から解放されるとすれば、考えてみればこれは仏教でいう「無」の境地に近いのではないか。とはいえ、私自身は死の瞬間まで明澄な意識を持っていたい。「我執」を手放したくないと思う。
私の身内にアルツハイマーを発症した人は見当たらないが、実家の隣りのおじさんが今から振り返るとアルツハイマーだったようだ。私が幼い頃から「おじさん」と呼んでいたこの人は、欄間の透かし彫りを彫る専門の職人だった。
幼い頃、私はこのおじさんの仕事場によく顔を出した。そうするとこのおじさんが彫刻刀でいろいろな物を彫るのを見せてくれた。その見事な鑿さばきに、子供ながら感心して、自分もおじさんのような木彫り職人の名人になりたいと思ったものだ。
このおじさんがぼけ始めたころ、おばさん(自分の奥さん)に向かって、「あなたはどなたですか」「もう、家に帰られたらどうですか」などと言うようになった。おばさんが私の家に来て、「長年つれそってきてこれだから、ほんとうに口惜しい」と愚痴をこぼしていた。
おばさんが悔しがるのは、おばさん以外の家人、つまり自分の息子や嫁はちゃんと識別しているようだからだ。嫁のことは認めているのに、妻のことはすっかり忘れて、他人行儀な口を利くのが許せなかったのだろう。最初は呆けだとは知らずに、わざと嫌がらせをしているのだと思って、腹も立ったという。
おばさんは、おじさんが呆ける前から、「うちの人は勤勉で腕がいいのに、仕事が丁寧すぎて、注文がさばけない。おまけに仕事を選ぶので、せっかくのお得意さんも逃げていってしまう」などと愚痴をこぼしていた。
職人気質が強く、納得のいく仕事をしたいおじさんにとって、何かというと生活の不満を述べるおばさんは、幾分鬱陶しい存在だったようだ。おじさんの意識のどこかに、「口やかましい妻などいなくなってくれればよい」という意識があって、こういう選択的な呆け方をしたのかもしれない。人間はだれでもいずれ多少は呆けるのだろうが、さて自分はどんな呆け方をするのだろう。
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