橋本裕の日記
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大江健三郎の初期の短編小説に、右翼に傾斜する少年の心理を描いた「セブンティーン」という短編小説がある。北さんに指摘されて、大江健三郎の小説に親しんでいたころの自分を思い出して、懐かしい気分になった。北さんが掲示板に投稿してくれた文章から引用しよう。
<自分も若い頃、自信がなく(自分が愛せなく)て神や国家を求めたことがあります。そんなころ、大江健三郎の「セブンティーン」を読んで、まさにそういう心理構造で右翼になっていく若者の心情がとてもよくわかったことがありました。
ドストエフスキー「カラマゾフの兄弟」の中の言葉が「愛国心」にも通じるものだということは、言われるまで気づきませんでした。確かに「人類愛」の心理と同じものがあります>
私も高校時代、やくざな私立高校に通い、劣等感に苛まれる毎日だった。「セブンティーン」を読み、主人公に反発と共感を寄せたものだ。
そのころ、親鸞やラッセルに出合い、宗教や哲学、自然科学に関心を寄せたのも、劣等感の裏返しだったのかもしれない。しかし、こうした豊饒な世界を通して、私は再び「隣人愛の世界」に戻ることができたように思う。
私が常用する仏教用語を使えば、「色即是空で理想の世界に行ったきりでなく、空即是色の現実回帰の力によって、豊饒な現世に戻る」ことができたわけだ。親鸞やカント、ラッセルの哲学、万葉集などの文学は、そうしたすぐれた情操と思想を若い人々のなかに育んむ力を持っている。まさに良書は心の栄養になる。
インチキな宗教や「愛国心」は、利己的な自己を肯定するために、他者や隣人の世界を否定する。こうした偏狭な思想は何も実りあるものをもたらさない。そこにあるのは、自己の劣等感や社会に対する不満をベースにした、他者に対する敵意や対抗心だけだからだ。
ドストエフスキーはイデオロギーや論理の空疎について、とてもよく理解していた作家だといえる。ラスコーリニコフはこの恐ろしい罠に陥り、殺人を犯すが、やがてソーニャとの出合い、隣人愛の世界に帰ってくる。大地に接吻する主人公の姿は彼と世界との和解を象徴していて印象的だ。
差別的な社会のなかで、劣等感に苦しみ人間不信に陥った青年が逃避するのは、右翼的な「国家権力」の世界だけではない。社会主義的な「人類愛」の世界も選択のひとつだ。しかし、こうした左翼的な世界も、ひとつの貧しい抽象の世界である。
人類愛と隣人愛は言葉は似ているが、まったく違ったものだ。抽象的で観念的な人類愛に対して、隣人愛は身近な人間から世界へと広がっている。それは空疎な観念ではなく、生き生きとした愛の力で、私たちの心を満たしてくれる。
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