橋本裕の日記
DiaryINDEX|past|will
今朝の起床は3時である。これは1時間ほど早すぎる。どうやら、妻がトイレを使う音で目が覚めたようだ。その直前まで、夢を見ていた。昨日のような悪夢ではない。温泉につかる夢である。
お金を払い、服を脱いで、さて温泉の湯に体を沈めようというところで目が覚めた。とても残念である。それにしても、何というタイミングの悪い醒め方だろう。これはこれで、ずいぶん意地の悪い夢だと言わなければならない。
それはそれとして、今日は昨日書くつもりだった「愛国心と依存心」について書こうと思う。実は私の書こうとしていたそっくりのことを、作家の雨宮処凛(あまみやかりん)さんが昨日の朝日新聞に書いていた。
昨日の日記にもしこの題で書いていたら、私が新聞を剽窃したと疑われるだろう。何しろ雨宮処凛さんの論文の題は「国家依存心利用しないで」である。昨日の寝坊と悪夢で書くのが一日延びたおかげで、このバツの悪さが避けられたわけだ。悪夢に感謝しないといけない。
以前、トルストイの「不幸な人たちが戦場に赴く」という「戦争と平和」のなかの言葉を引用したが、国などという抽象的な存在を愛するという人も、おそらく身の回りの肉親や隣人を愛することができない「不幸な人たち」ではないかというのが私のいいたいことである。
愛国心については、「愛する祖国を守るため」とか、「家族や恋人を守るため」とか、そうした美しい側面が映画などで強調されている。しかし、どうもそのようなきれいごとで「愛国心」をくくることはできない。むしろそれは愛国心の暗黒面を隠蔽するための巧みな自己欺瞞ではないのかと、意地悪な私などはつい考えてしまう。
ここで、ちょっと、ドストエフスキーさんにも登場して貰おう。友人の北さんの5月15日の日記より孫引きさせて貰う。実は今日の私の日記は、このドストエフスキーが「カラマゾフの兄弟」の中に書いた言葉がもとになっている。これを読んだとき、これは「人類愛」についてばかりにではなく、「愛国心」にも通じるのではないかと閃いたわけだ。
<私は人類を愛するけれども、自分で自分に驚くようなことがある。ほかでもない、一般人類を愛することが深ければ深いほど、個々の人間を、一人一人別なものとしてそれぞれに愛することが少のうなる。・・・だれかちょっとでも自分のそばへ寄って来ると、すぐその個性が自分の自尊心や自由を圧迫する。それゆえ、私はわずか一昼夜のうちに、すぐれた人格者すら憎みおおせることができる。ある者は食事が長いからというて、またある者は鼻風邪をひいて、ひっきりなしに鼻をかむからというて憎らしくなる。つまり、私は人がちょっとでも自分に接触すると、たちまちその人の敵となるのだ。その代わり個々の人間に対する憎悪が深くなるにつれて、人類全体に対する愛はいよいよ熱烈になってくる>
キリストは「自分を愛するように他人を愛しなさい」と説いた。自分を愛することを否定はしていない。そもそも自分を愛せない人間が他人を愛せるのか疑問である。自己憎悪や劣等感に悩む人間は、おそらく他人に対して嫉妬心や卑屈な感情を抱くに違いない。これで他人が愛せるわけはない。
こうした自己憎悪や劣等感に悩む人間は、けっして隣人を愛することはできない。しかし、彼らは自己や隣人は愛せなくても、「人類全体」や「国家」は愛することができる。いや、自己や隣人を愛せないないがゆえに、その代償として、異常なほど「人類全体」や「国家」などという空虚な作り物にのめりこんでいくわけだ。つまりそれらは、自己のどうしょうもなく悲惨な現実の裏返しなのである。
こうして劣等感の強い、個人として自立できない脆弱な人間が、最後の拠り所とするのが、「人類愛」であったり、「国家」であったりするわけだ。とくに自己の脆弱さを意識する者は、「強い国家」に憧れる。そして自ら「国家主義者」となって、他人の上に君臨し、支配しようとする。それは実は自らの劣等感や依存心の陰画でしかない。
こうして、脆弱な個人がその「依存心」のゆえにすがろうとする対象が「国家」である。昨日の朝日新聞の雨宮処凛さんの文章もこうした視点で書かれている。彼女の作家らしい達意の文章は、最近芽生えてきたネット右翼の心情を理解する上にも助けになるだろう。
<強い日本を求めるのは、弱い自分の裏返しだ。家庭や学校や職場に裏切られたが、国家は新しい居場所を提供してくれそうに見える。・・・フリーターやニートと呼ばれる自分も、強国の国民としての誇りとプライドを持てるかも知れない。生きづらい社会の中で、悲しい希望が愛国に向かっている>
<社会的に力を持つ人たちがその流れに乗り、自分たちに都合のよい教育制度を作り上げようとする動きは容認できない。学校現場の荒廃を食い止めるために愛国教育が必要だと主張する人がいるが、冗談ではない>
<先日、フリーターの待遇改善を求めるデモに参加した。国や企業にもの申す若い人の姿に、沿道の多くの人が共感してくれた。国に依存するのではなく、国を変えるために自ら動く。こうした若者が増えれば、少しは生きやすい世の中になるのではないか>
雨宮処凛さんが言うように、「社会的に力を持つ人たちがその流れに乗り、自分たちに都合のよい教育制度を作り上げようとする動き」が今勢いを持ち始めている。しかし、教育において大切なのは、国家に依存しない、むしろ政治にも主体的に係わる自由で闊達な個人をつくり出すことだ。
戦前の日本を振り返れば、「愛国心」がどこから起こってきたか、そしてその先に何があったか、その危険性は明らかだ。国家への依存心は、やがて国家の横暴につながる。歴史の教訓からこの真実を学ぶべきだ。
|