橋本裕の日記
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昨日紹介した宮川さんは、中学時代はオール1で、学習意欲もなかった。九九さえできない落ちこぼれの彼が、一転して学問の面白さに目覚め、24歳で定時制高校に入学すると、やがて数学で愛知県のトップの成績をとり、27歳で名大の物理学科に入学した。
宮川さんがここまで変わったのは、「恋人に認めてもらって結婚したい」「アインシュタインのような物理学者になりたい」という強力な学習の動機付けを持ったことだ。このポジティブな動機付けが彼を駆り立てた。
人間はその気になれば、かなりのことが可能である。それだけの潜在能力を私たちは誰もが持っている。しかし、なかなか「その気」にならない。それはなぜだろう。一口でいえば、動機付けの方向性が間違っているからである。
たとえば英語や数学を学習する場合でも、「いい大学に合格するため」という動機付けでは、なかなか上達しない。「いい大学に合格したい」という欲望そのものが、ともすれば蜃気楼のように揺れ動くからだ。
セブの英語学校で一緒だったA子さんは、中学、高校と英語が大の苦手だったという。ところが4人クラスでも、8人クラスでも、彼女が一番英会話ができた。「苦手な英語がどうして得意になったの?」と聞くと、「カナダ人の彼氏がいた」ということだった。
彼氏とコミュニケーションを取るために、教会の英語スクールに通って英会話を勉強した。そうしているうちに、外国人と英語で語り合う楽しみに目覚めたのだという。彼女は受験のための英語には挫折したが、外国人と友達になり、もっと自由で素敵な人生を送りたいという動機付けをもつことで、ついに英語を上達させることができたわけだ。
学習について、最良の動機付けは「そのものが好きになる」ということだろう。私の場合は高校時代から数学や自然科学が好きで、大学、大学院でその勉強をし、いまでもその関係の本を読み、新しい知識を得たり、それをもとにあれこれ考えるのが楽しい。
何か事を為す上で必要なのは、本物の「やる気」である。ところが多くの人は、少し壁にぶち当たると、すぐに「やる気」をなくしてしまう。その理由は、その動機付けの方向が間違っているからだ。「試験にいい点数をとるため」という動機付けでは限界がある。そして限界にぶつかったとき、すっかりやる気がなくなり、勉強自身が嫌いになる。
人はだれも大きな潜在力をもっている。しかし、挫折を経験するうちに、多くの人たちは自分の能力を信じなくなる。自分は数学はできない。英語は苦手だ。自分にはコンピュータは向いていない。などなどネガティブな固定観念をもち、これに支配されるようになる。
巨象をおとなしくさせるには、小さな杭につなぐだけでよいという。これは子象のとき暴れて杭を抜こうとしたが無理だったという挫折体験があるからだ。そして成長して軽々と杭が抜ける力があっても、もはや最初からあきらめて、けっして自分の力を試そうとはしない。人も同じである。
私は基本的に他人にできて自分にできないことはないと思っている。ただ不器用でそのやり方がわからないだけである。時間をかければ、いずれそのやり方はわかる。たとえば、私がクロールに挑戦したのは小学生の4年生のときだったが、泳げるようになったのは、45歳のときである。
1メートルも泳げなかったクロールが、今は千メートルでも泳げる。同様なことが英会話の学習でも、他のことでも次々と起こり、私の人生を豊かで楽しいものにしてくれている。これは時間はかかるが、「やる気」をもって挑戦しつづければ、いずれ可能だと私が自分を信じて、挑戦し続けたからだ。
教職につくとき勉強した本の中で、「できない子供がいるのではない。できるのに時間がかかる子供がいるだけだ」という言葉に出合い、目が覚める思いをしたことがある。早くできることだけがすべてではない。じっくり時間をかけてできるようになることもいいものである。人生一生勉強できるということほど、楽しいことはない。
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