橋本裕の日記
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2006年05月13日(土) オール1でも高校教師

 先日喫茶店で、妻に「読んでごらん」と、「女性自身5/23号」の「シリーズ人間」のページを見せられた。「オール1でも高校教師になれる」という表題に惹かれて、読み始めたが、これがなかなか痛快だった。

 私立豊川高校で教鞭をとる数学教師の宮川延春(37)さんは、体が小さくて、学校でよくいじめられたという。足に画鋲を刺されたり、顔をパンパンになるまで殴られたりして、学校に行くのが苦痛だった。

 その結果、とうとう九九も2の段までしか覚えることができず、中学1年の時の通知表はオール1だったという。中学3年生になっても、技術と音楽以外はすべて1だった。進学できる高校はなく、「技術」の2を生かして、職業訓練校の建築科に1年通った。

 宮川さんの父親はラーメン屋をしていた。酒飲みの上に病気がちで、家業はもっぱら母親がやっていたが、母親も訓練校在学中に52歳で死んだ。やがて入院していた父も死んで、宮川さんは18歳で天涯孤独になってしまう。

 訓練校を卒業した宮川さんは、大工見習いになるが、人間関係がうまくいかず、そこをやめる。そして音楽関係の仕事をしたりしたあと、ある建築会社に就職し、上司にも恵まれ、ようやく少し落ち着くことができた。そして好きだった少林寺拳法の道場に通い始めた。

 そこで宮川さんは現在の妻である純子さんに出会う。しかし彼より一つ年上の純子さんは、国立大学の英文科を出ており、しかも美人だった。さっそく宮川さんはアプローチするが、九九もろくにできない宮川さんにとって純子さんは高嶺の花である。

 しかし、純子さんは親切だった。九九のできない宮川さんに小学校3年生の数学ドリルからはじめて、算数の基礎を教えてくれた。純子さんという理想の家庭教師を得て、宮川さんははじめて勉強の楽しさに目覚めた。

 そのころ、宮川さんは、NHKの番組のビデオでアインシュタインの特集をみて、自然科学の世界に心を動かされた。そして「オレもアインシュタインのような偉大な物理学者になりたい」と思った。まず、本屋に行って「やさしい物理学の本」を買って読み出した。

 純子さんと知り合い、アインシュタインに出会うことで、宮川さんの人生が大きく変わった。彼は物理学者になりたいという夢を得た。そして名古屋大学の理学部に入学するために、まず私立豊川高校の定時制に入学した。

 このとき、宮川さんはすでに24歳になっていた。毎朝5時に起きて、出勤前まで勉強し、会社のあと夜学で学び、帰宅してからも12時まで机に向かう毎日だった。彼は1年間の高校の教科書を1ヶ月でマスターしたという。こうして、高校2年生の秋には、全国模試の数学の得点で愛知県のトップをとれるまでになった。

 宮川さんは27歳でみごとに名古屋大学に合格した。そして9年間、大学と大学院に通い、研究に没頭した。この間に純子さんともめでたく結婚し、長男と次男が生まれた。そして、宮川さんもいつか36歳になった。この間、純子さんが建設会社に勤務して、家計を支えてきたのだという。

 彼は今年の春、母校の豊川高校で数学教師になる道を選んだ。物理学への愛情も夢も捨ててはいないが、高校教師として「子どもたちが目標を見つける手助けをしたい」と考え、教育者になることを決断したのだという。

「なんでも夢中になってしまう人だから、頑張りすぎないか心配です」と妻の純子さんは語っている。この言葉の通り、人間夢中になると集中力が生まれ、とてつもないことができるものだ。宮川さんの半生がこのことを示している。宮川さんは名古屋大学大学院の後輩である。私と同じく高校教師の道を選んだ彼に祝福のエールを送りたい。

 私の勤務する定時制には九九ができない生徒がかなりいる。1年生の数学の授業は、まず算数のドリルを使って、九九や分数の計算からだ。しかし、中学時代オール1だった宮川さんも算数のドリルからはじまって、数年後には成績が県内でトップになり、大学院にまで進学している。この話を、教室で私の生徒たちにもしてやりたいと思う。

 ちなみに中学時代の私の数学の成績は3だった。高校受験に失敗してやむなく行った私立高校でも、物理で赤点をとったし、数学の成績もせいぜい3だった。それでも国立大学の物理学科に現役で合格し、大学に入学してからの数学の試験の得点はクラスで1番だった。過去の成績などあてにならないものである。大切なのは現在のやる気だ。


橋本裕 |MAILHomePage

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