橋本裕の日記
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2006年05月12日(金) |
コミュニケーションと英語 |
日本人は英会話が苦手だという。私も大いに苦手だった。中学、高校と6年間英語を習い、大学、大学院でも物理の教科書や論文はほとんどが英語だった。社会人になってからも英語の小説を読んだり、テレビやラジオの講座を聴いた。これだけ英語の学習をしていながら、英会話ができない。洋画の英語など、ほとんど聞き取れなかった。
ところが去年フイリピンのセブに行って、少し状況がかわった。一週間もすると、日本では決して話せないし、話したこともない英語が、無意識に口をついて出てくる。「英語が苦手です」というと、「ちゃんと話しているじゃないの」とフイリピン人の先生に言われ、「ああ、ほんとうだ」と苦笑いをした。相手の話す英語もほぼ理解できるから不思議だった。
先日も韓国人のPatrickから電話がかかってきたが、お互いに英会話で意志の疎通ができた。とっさにいろいろな英語が浮かび、笑いながら話している。こういうことが可能だとは、一年前までは想像することもできなかった。
これはもちろん、セブに語学留学していた2週間のうちに、英語力が格段に伸びたからではない。語彙力や文法力はそんな短期間で習得できるものではない。私の英語の基礎力は正直言って、高校時代とそれほどかわらない。また、今後もそう変わらないだろう。それが証拠に、私が口にする英語は、ほとんど中学レベルのやさしい単語と文章である。
短期間に飛躍的に伸びたのは、単語力ではなく、これを組み合わせて文章にするスキルではないだろうか。もともと単語も、英文法も知識として持っていたわけだから、あとはこれを「化学反応」させて口にすればよいわけだ。こうした「実践力」が短期間についたというわけだろう。
それでは、なぜこうした「実践力」が短期間についたのだろう。私はそれは「コミュニケーション」の力ではないかと思っている。セブの学校にいるとき、授業以外でも英語を使うことが多かった。たとえば食堂で食べたあと、プールのあるテラスに行って一休みすると、顔見知りの韓国人が声を掛けてくる。そこで必然的に英会話がはじまるわけだ。
母国語の習得の場合を考えても、子供は最初は母親とのコミュニケーションなかで言葉を覚える。コミュニケーションが語学の学習にとって出発点であり、その後も語学学習の重要な要因である。これによって、私たちは言語を感情のこもった生きたものとして体得できるわけだ。
こう考えれば、なぜ日本人が学校で6年以上外国語を学習しながら、片言の外国語も話せないのか理解できる。つまり、日本の語学学習は「言葉はコミュニケーションの手段」だという基本的な認識を欠いていて、教育法そのものが間違いだということだ。こうした教育法では何十年英語を学習しても、やはり英語はものにならない。
もちろん学校での学習が無駄だったというわけではない。そこで学んだ文法力や語彙力はとても大切なものだ。問題はいかに高度な文法を知り、単語を記憶していても、それを「活用」するスキルを知らなければ宝の持ち腐れだということだろう。
今年の夏は、7月23日から8月13日まで、3週間ほどセブに行こうかと思っている。セブでまた「英会でコミュニケーション」をたのしみたい。残念なことにこれは研修扱いにしてもらえない。年間20日間の有給休暇を、ここで15日間も使うので、私はほとんど学校が休めなくなる。自由に使える時間がないのはつらいことだ。
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