橋本裕の日記
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妻と一緒に散歩をすると、十数匹もの雀がチュンチュク鳴きながら寄ってくる。その理由は妻が毎日米粒を路肩に蒔いているからだ。妻によると、この雀たちは妻がどこに住んでいるのかも知っているそうだ。
最近は私が散歩に出ても寄ってくる雀がいる。妻と一緒に歩いていたからだろう。そういう訳で、妻の旅行中は、私が米粒を一握り持参して、いつも妻が蒔いているあたりの路肩にまいてやることにした。
こうして私は、トビ、シラサギ、五位鷺にくわえて、雀とも顔見知りになった。他に、イソシギやカモやもいる。彼らの元気な姿を見るのも、散歩のたのしみだ。とくに今頃の季節、朝日を浴びながらの散歩は気分がよい。
この土地に16年以上住んでいながら、私は彼らのことをあまり知らなかった。去年、定時制高校に転勤になって、朝の散歩をするようになって、この土地の魅力にはじめて目を開かれた。たしかにこうして毎日歩いていると、いろいろな発見があり、この土地がますます好きになり、愛郷心のようなものが湧いてくる。
もっとも、腹の立つことや、悲しいことも目に見えてくる。これまで田んぼが埋め立てられ、用水路が次々と暗渠になっていくのを見ても、何とも思わなかったのに、最近は「あああそこに巣を作っていたイソシギは困るだろうな」とか、「あの用水でいつも餌を探していたシラサギはどうするのだろうか」と気になるのである。
用水に蓋をして道路を拡張する工事を請け負っているのは、地元の業者らしい。市から工事を請け負い、この辺りの用水を次々と暗渠にしている。以前の私は、道が広くなり、地元の業者が潤うのはよいことだと思っていた。しかし、今はこの現実を辛い気持で眺めている。身の回りから次々と生き物が姿を消し、ゴミをあさるカラスばかりが目に付くのは、とても淋しいことだ。
私たち夫婦が散歩道にしている用水も、工事が予定されている。先日、散歩をしていたら業者らしい人が測量をしていた。用水が暗渠になると、もちろんそこに生物は住めない。
用水に日差しが差し込めば、そこに水草が茂り、無数の目に見えないバクテリアが水を浄化する。鯉やフナやザリガニが棲みつき、鳥たちもやってくる。学校の行き帰りに、子供たちはそれを眺め、いのちの美しさやかなしみについて理解をふかめるだろう。
生活排水は、用水に生き物たちが住んでいれば、彼らによって浄化される。しかし、暗渠ではこれは不可能だ。排水はそのまま川に流れ込み、川に生きるものたちをも滅ぼしていく。そして、川は海に流れ込む。つまり、用水を潰すということは、川を汚染し、海を汚染するということだ。
やがて、そのしっぺ返しは、人間にふりかかってくるだろう。自然を破壊するということは、自然の一部として生きてきた人間の生活ばかりではなく、その感性をも破壊する。いくら世の中が便利になっても、自然から疎外されて、その豊かな生命との共感を失った人間が、しあわせになれるわけはない。
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