橋本裕の日記
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2006年04月16日(日) |
イソシギのいる散歩道 |
最近、雨の日が多い。春雨であり、菜種梅雨ともいう。雨の中を傘をさして散歩する。散歩しながら唄をうたったり、俳句を捻ってみたりする。高血圧で悩む私には、こうして歩くことがお金のかからない贅沢な健康法である。
歩きながらまわりの風景を眺め、思索をする。たとえば、去年は3羽のヒナがいた田んぼで、今年もイソシギのカップルがやかましく鳴いている。これは卵をかえそうとしているだろう。去年、このイソシギをテーマにして日記をかき、それを朝日新聞に投稿した。それは、こんな文章である。
−−−−子育てに成功、イソシギ一家−−−−−
毎朝、散歩をしている。田んぼに早苗がすくすくと育ち、民家の軒先にはアジサイが咲き始めた。木曽川が近いせいか、カモやシギの姿もみかける。
畑の中にイソシギの巣があり、2カ月ほど前にヒナがかえった。私が近づくと、親鳥が「チッ、チッ、チッ」と警告し、ヒナたちが田んぼの方にはねるようにして、かけていく。
やがてヒナ鳥も大きくなり、空も飛べるようになった。そして突然、畑からイソシギの親子の姿が消えた。そのかわり、近くにイソシギのものと思われる羽が落ちていて、草陰には黒猫がいた。
私は胸騒ぎを覚えた。しかし、木曽川の河原に見覚えのあるイソシギの親子がいるのに、胸をなで下ろした。親子は舞い上がると、あいさつでもするように私の頭上をかすめていった。
田んぼが埋められ、畑も姿を消す中で、イソシギや他の鳥たちも、安心して子育てできる環境ではなくなりつつある。それでも、人家のすぐ近くの小さな畑で、めげずに立派に子育てを成功させた彼らに、エールを送りたい。
−−−−−−−−−−−−
この文章は昨年6月23日の朝日新聞の「声」の欄に掲載されている。2ケ月前というと4月の下旬だから、もうそろそろヒナが孵ってもよいころだ。まだヒナの姿見ていないが、その田んぼの近くを通るときは目を凝らす。そうすると、イソシギのカップルの声がひときわ高くなる。
イソシギの親鳥たちは、巣に近づくものは人間であれ、犬であれ、甲高い声をあげて、果敢に攻撃してくる。私の愛犬も襲われたし、近所のドーベルマンのような黒い大きな犬にまで襲いかかってくる。親鳥たちは子を守るために必死である。
イソシギの母性愛、父性愛の強さには脱帽だが、これは多くの動物がひとしく持っている本能だろう。この本能によって子供たちは保護され、成長することができる。子孫を残すためにこの本能は大切である。
人間もこうした本能は持っているが、子育てはもう少し複雑なので、本能だけに頼ることはできない。私たちはそれを親やまわりの人々の子育ての姿を通して学習するわけだ。そうした学習を通して、まさに母性愛、父性愛と呼ぶにふさわしい感情を育てる。子育ては、つまり自分を父親として、母親として育てることでもあるわけだ。
散歩をすると、いろいろなことを考える。そして、散歩の途中考えたことが核になって、それをさらに深めることで、日記の文章ができることが多い。こうして日記を書くためにも、散歩は毎日か欠かせないわけだ。
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