橋本裕の日記
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2006年04月02日(日) |
リットン調査団と湛山 |
満州事変が起こると、国際連盟はこれが連盟規則・不戦条約違反ではないかと疑い、リットン調査団を日本、満州、中国に送ることにした。日本政府はこの調査団を受け入れた。調査団は2月29日に日本を訪れた。
しかし、この調査団を迎える日本の世論は冷ややかだった。軍部の一部にはコレラ菌をつけた果物を差し入れて、一行を病死させようという計画があり、実行されたが、失敗したのだという。半藤一利さんは、「戦う石橋湛山」のなかでこう書いている。
<結果は失敗に終わったからよかったが、それが実現したら、ということを考えるとき、当時の軍部がいかに国際政治を無視して狂気に走っていたか、非文明的であったかが想像されて、背筋に冷たいものが走る>
湛山は「日支衝突の世界的意味」という調査団宛の書簡を3月5日に「経済新報」に載せ、3月7日にはこれを英語に翻訳したものを調査団に手渡した。もとより湛山は「満州国不要論」を展開し、日本帝国主義の軍拡路線に批判的だった。書簡にもこう書いている。
<記者は、日本の経済が満蒙に特殊権益なくせば存立せずなどとは信じない。しかしいかに異論は存するも、国民多数の感情が大陸侵出を望める大勢は阻止し難い。・・・
日本は。その国民主義的ないし帝国主義的感情から大陸に侵出せんとし、支那国民はまた同様の感情から、日本の侵出を阻止し排斥せんとする。衝突はここにいやでも起こらざるをえない>
しかし、この書簡のなかで、湛山は日本のそうした行動もまた、列強の帝国主義的政策から生まれたものであると断じ、列強を強い調子で批判した。
<人類のためにあたえられたる地球の上を勝手に分割して、自己の所有なりと潜称するのみならず、他国の住民の労力が間接に彼らの領土内に働きかくることさえも拒絶している。・・・
彼らはかようにして、日本の満蒙侵出どころの程度ではない。恐るべき侵略主義、帝国主義、国民主義により世界の平和を攪乱しつつあるのである。日本が世界のこの現状に刺激せられて、いわゆる自己防衛のために、せめては満蒙に経済的立場を作らんと急るも決して無理ではないではないか。
列強は口を開けば支那の門戸開放をいう。これも誠に可笑しい話だ。もし、支那の門戸開放が世界人類のために善き事なれば、なぜ彼らはまたインドの、満州の、フイリピンの、南米の、その他彼らの本国とすべての領土の門戸開放をせぬのであるか。
支那の門戸開放とは、つまり支那に対する列強の侵略に機会均等を与えるということに他ならなぬ。記者は、かかる馬鹿馬鹿しき帝国主義、見え透いた利己主義を、お互いに根本から棄てぬ限り、かりに当面の支那紛争は一時鎮定し得たとて、いつかまた必ず再燃するほかないと考える。しかして世界はさらに第二の大戦を繰り返すに至るであろう。
記者は前にもいえるごとく、日本が従来支那に対してとれる政策を是認する者ではない。けれどもその理由は、ただ、日本が列強の尻馬に乗りて、自己もまた帝国主義政策をとることを不利益なりと信ずるが故である。支那調査委員は、願わくば世界の真の平和のため、これに着眼せんことを希望する>
湛山はじつに堂々と西欧の帝国主義政策の非なることを批判している。そしてこれの尻馬にのって騒いでいる日本の現状にも触れ、これを放置すれば「第二の大戦を繰り返すに至るであろう」とまで予言している。
リットン調査団は10日に及ぶ日本での調査を終えて、満州へ旅だった。そのあいだにも、満州では日本軍が地歩を固めていた。そして、昭和7年3月1日に満州国が建国されたわけだが、これを承認する国はなく、連盟規則・不戦条約違反だとする声がさらに高まった。
日本政府は国際世論の悪化を恐れて、表向きは満州国の承認を保留していた。しかし、当時の犬養内閣は3月15日の閣議で、満州国に対する政策を極秘裏に決定していた。
<新国家にたいしては帝国として差し当たり国際公法上の承認を与えることなく、でき得べき範囲において適当なる方法をもって各般の援助を与え、もって漸次独立国家たるの実質要件を具備するよう誘導し、将来国家承認の気運を促すに務むることに決定したり>
こうした事情を知らない軍部やジャーナリズムからは、政府が弱腰だという批判が起こった。たとえば毎日新聞は満州国承認に否定的な国際連盟から脱退せよと論陣を張った。3月30日の社説にはこう書いている。
<試みに増殖力旺盛にして、内に発展力充実せる民族があるとせよ。この民族が一方に広漠たる大領土を有して人口稀薄に苦しめる国家より抑えられ、狭小の地域に過群生活を強いられねばならぬとは、それが人類世界の真理といえるだろうか。・・・
わが国が連盟参加国たるがゆえに、不当の決議をつきつけられ、よし空疎であるとしても、文字の上において規約違反国として指弾さるるがごとき形勢があるとすれば、わが国がこれより脱退することもまた止むを得ないのである>
こうした連盟恐れるに足らずという世論が沸騰するなかで、犬養内閣はしだいに孤立して行った。国際世論に遠慮して満州国承認を宣言しない内閣の姿勢が国民には弱腰としか見えなかった。そして5月15日、事件は起こった。首相官邸で夕食中、犬養首相は海軍の青年士官らに襲われ、「問答無用」と射殺された。
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