橋本裕の日記
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関東軍の謀略で柳条溝事件が起き、ここから満州事変が始まった。そしてわずか6ヶ月後の昭和7年3月1日には満州国が発足した。これは政府中枢の国務院253人のうち130人が日本人という傀儡政権だった。これをでっち上げるために国民の世論を盛り上げ、大いにハッスルしたのが新聞だった。とくに毎日、朝日は凄かった。
毎日新聞は「守れ満蒙、帝国の生命線」の特集をして戦闘気分を盛り上げ、社内では「毎日新聞後援・関東軍主催・満州戦争」などと言われていたという。朝日はもまたこれに負けじとばかり、3月4日には「生命線へ花嫁、男子と手を携えて、満蒙の新天地へ」「一旗あげようと、目覚ましい満蒙景気、満鉄へ問い合わせ殺到」と書き立てた。半藤一利さんは「戦う石橋湛山」(東洋経済社)にこう書いている。
<近代戦はまさに大資本の絶好の活躍舞台であった。多くの飛行機、自動車、電送写真など特殊通信器材という機動力と最新機械力とをフルに動かせるのは朝日・毎日の両紙のみといっていい。ちなみに事変中の6ヶ月間に両者は臨時費をそれぞれ百万円消費した。当時の総理大臣の月給8百円と比較してほしい。
朝日の発表では、飛行機の参加台数8機、航空回数189回、自社制作映画の公開場所1500、公開回数4024,観客約一千万人。写真号外の発行度数131回であったという。もちろん毎日も映画を製作し負けずに観客動員を書けている。新聞は、戦争とともに繁栄し、黄金時代を迎えるという法則があると聞くが、それがものの見事に実証されている>
事変が起こるまで反軍の立場にあった朝日や毎日が、なぜ豹変したのか。なぜ軍部を応援し、事変の拡大に慎重な政府を叱責したのか、その答えがここにある。当時朝日新聞の主筆だった緒方竹虎は戦後、「五十人の新聞人」でこう回想している。
<今から考えて見て中央の大新聞が一緒にはっきりと話し合いが出来て、こういう動向を或る適当な時期に防げば防ぎ得たのではなか。実際朝日と毎日が本当に手を握って、こういう軍の政治的関与を抑えるということを満州事変の少し前から考えもし、手を着けておけば出来たのじゃないかということを考える。
軍というものは、日本が崩壊した後に考えてみて、大して偉いものでも何でもない。一種の月給取りにしか過ぎない。サーベルをさげて団結しているということが一つの力のように見えておったが、軍の方から見ると新聞が一緒になって抵抗しないかということが、終始大きな脅威であった。従って各新聞社が本当に手を握ってやれば、出来たのじゃないかと多少残念に思うし、責任も感ぜざるを得ない>
事変が始まると、朝日と毎日は手を握るどころか、販売部数を増やすために熾烈な報道合戦を繰り広げた。事変を望んだ軍人も一種の月給取りに過ぎなかったが、残念なことに新聞人もまた月給取りにしか過ぎなかったわけだ。いや安全地帯にいただけにもっとたちが悪かったというべきだろう。
半藤さんは「言論界からは言論の自由を守っての殉難者はひとりもいない」と厳しいことを書いている。たしかに有力な言論人は抵抗しないどころか、お先棒をかついで回った。戦後彼らは口裏をあわせたように「軍部の圧力」を口にした。緒方竹虎は言論人の責任をしぶしぶ認めてるだけ良心的だと言えよう。
もっとも、殉難こそしなかったが、軍国主義を批判し、大陸侵略を非として、平和主義、国際協調主義の意見を臆せず吐き続けた人はいた。石橋湛山は1月16日の「東洋経済新報」の社説「満州景気は期待できるか」で、国民の熱気に冷や水を浴びせている。
<日本および世界経済の悩みは過剰生産力を擁して捌け場に困っている点にあって、決して生産力の不足ではない。満州開発がスラスラと都合よく運んだところが、それはむしろ今日の日本および世界経済を一層困らすことを作用するとはいえようが、今日の資本主義を生かす足しには決して役立たないであろう>
しかし湛山が主筆として社論を書いた「東洋経済新報」は経済専門誌であり、彼の言論人としての名声も多くの国民までは及んでいなかった。この点、「武士道」を書いた新渡戸稲造は国民的人気者の名士だった。
稲造は国際連盟で事務総長につぐ次長を勤めたあと、日本にかえって当時貴族院議員をしていた。満州事変が始まり、軍事色が深まるなかでも、彼は一貫して国際連盟よる国際協調と平和主義を主張した。
「わが国を滅ぼす者は共産党か軍閥である。そのどちらがこわいかと問われたら、いまは軍閥と答えねばならない」
「国際連盟が認識不足だというが、だれも認識させようとしないではないか。上海事変に関する当局の声明は、三百代言と言うほかない。正当防衛とは申しかねる」
こうした発言に対し、日本の新聞は「新渡戸博士の暴言を8千万国民は是認するのか」と一斉に攻撃した。たとえば昭和7年2月21日の日本新聞は大見出しで、「国論の統制を乱す新渡戸博士の暴論」と書き、時事新報は「新渡戸博士の講演に憤慨、関西、山陽の在郷軍人会、少壮将校ら立つ」と書いた。
当時70歳だった新渡戸は4月にアメリカに立ち、フーバー大統領と懇談し、アメリカ各地で講演し、ラジオにも出て、日本の立場を説明した。しかし、この年に5.15事件が起こり、犬養首相が殺害された。もし新渡戸が日本にいたら、間違いなく狙われていたことだろう。
翌8年3月、日本は国際連盟脱退。同年9月、71歳の新渡戸は腹痛を訴えアメリカで倒れた。そして10月16日、ビクトリアの病院で、アメリカ人の夫人に看取られて永眠。日本の行く末を案じていた新渡戸は「いま死にたくない」と漏らしていたという。
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