橋本裕の日記
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昨日は青春18切符で、福井へ行って来た。木曽川駅を7:44に出て、途中、大垣、米原、敦賀で乗り換えて、福井に着いたのは11時頃だった。さっそく足羽川の桜並木の堤を散歩した。
足羽川の桜並木は有名だが、残念ながらまだ桜は蕾である。しかし満開の桜を何度も見ているので、その美しいさまを想像しながら歩いた。一昨日までの春の陽気が後退し、風の冷たい曇り模様の寒い一日だったが、歩いているうちに温かくなった。
1時間ほど歩いてから、ヨーロッパ軒に入った。ここのソースカツ丼がうまい。敦賀に行くときもそうだが、福井に帰省したら必ずここで食べることにしている。福井のこの店が本店で、私が生まれる前からカツ丼を作っている。何しろ創業は明治時代で、カツ丼を発明したのはこの店だという。
母は女学校を卒業したあと、この近くの商事会社で働いていた。私の自伝には銀行と書いたが、それはまちがいで商事会社だそうだ。名前は忘れたが、繊維関係の取引を専門にしていたようだ。
店にお客さんが来ると、ヨーロッパ軒へ電話で出前を頼んだ。客が残した料理をみんなで分けて食べたこともあったという。残業があると、会社は従業員にもヨーロッパ軒のカツ丼を出してくれる。これが楽しみで残業と聞くとうれしくなったという。
私が子どもの頃も、ヨーロッパ軒のカツ丼は滅多に口にはいらなかった。1969年に私が大学に合格して金沢に行くとき、同級生のS君が私に「お昼をご馳走するよ」というので、迷わずヨーロッパ軒でカツ丼をおごってもらった。食べた後、S君に送ってもらい、金沢に旅立った記憶がある。ヨーロッパ軒でカツ丼を食べながら、そんなことも思い出した。
その店を出た後、途中で洋菓子屋により、ケーキを12個ほど買った。母と弟夫婦、それに子どもが4人だから大家族だ。私の分を加え、子どもたちには2個ずつと計算して、12個になった。
母には行くことを報せていない。報せるといろいろと買い物をしたりして大変である。そこで不意打ちをくらわせるわけだ。母の驚いた顔も見てみたい。ただ、母はC型肝炎なので病院に通っている。留守が心配だった。
玄関を開けて、「こんにちは」と大声を上げると、「はい、どちらさまでしょうか」と母が出てきた。私を見ても気付かない。「僕だよ」と念を押すと、「あら、なに、あなたなの」とやっと私に気付いて顔をほころばせた。最近視力が落ちたのだという。
居間で母と二人の甥が食事の最中だった。上の二人の男の子たちはアルバイトに出かけているらしい。弟夫婦は共稼ぎだから、二人とも家にいない。電気ごたつに足を入れて、母と半年ぶりにゆっくり向かい合った。
「泊まって行くんでしょう。ゆっくりして行ってね」 「いや、明日朝から学校があるからね。3時にここをでるよ」 「そんなに早く? たまにはゆっくりしていけたらいいのに」
気になっていたのは、一番上の甥のことだった。大学受験の結果を知りたかった。合格した場合にそなえ、一応2万円ほど包んできた。私の娘たちもそうだが、弟夫婦も子供たちに私学へ行くことは許していない。国公立以外はお金がかかるので無理なわけだ。母の表情から結果が思わしくなかったことは想像がついた。
「それが、一次も二次もダメだったのよ」 「浪人するのか」 「まだ決めてはいないようよ。やはり私学へも、予備校へも行かせないって言うの」
それから母の話を2時間ほど聞いた。家を出るとき妻に「お母さんの愚痴をしっかり聞いてきてあげなさいね」と言われている。確かに今の私には愚痴を聞くことくらいしか親孝行の方法がない。
肝炎という不治の病気を持ち、週2回注射に通いながら、75歳になってもいまだに4人の男の子の孫を育てている母は、心も体も休まるときがない。一番下がまだ小学校の2年生である。とびきりやんちゃな子なので、手が焼けるようだ。
その子が私の目の前で、インスタントのカップ麺を食べていた。たしか、去年の春に来たときも、この子は同じものをお昼に食べていたような記憶がある。これで食生活は大丈夫かと心配になったが、母も精一杯なのだろう。
4人の甥のために1万円ほど小遣いを置いて、私は3時過ぎに家をあとにした。本当は母にも小遣いを渡したかったのだが、その余力は私にはない。来年次女が大学を卒業して社会人になれば、そのときは多少は金銭的に母を助けることができるのではないかと思った。
福井発3時46分の電車に乗った。途中、武生を過ぎた辺りから、車窓の外が吹雪になった。今庄はもうすっかり雪の中だった。樹木の白いのが、満開の花のようにも見えた。北陸線の沿線の風景はいくら見ても飽きない。山里の淋しい風景がことのほか懐かしく、そして悲しく、私の心の琴線にふれてきた。
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